一人のウエイトレスが僕に言ふ。
「あなた方のなさること、私達にはわからないわ」
 その女が「あなた方」と言ふのは明らかに僕や槇たちのことを意味してゐるらしかつた。しかし僕は故意にそれを僕と彼女とのことだと取つた。僕はその女が金齒を光らせて笑つたのが厭だつた。僕はその女を輕蔑して、何も返事をしないでゐた。

 さういふ風にして、微妙な注意の下に、僕が彼女から愛の確證を得つつある間、僕はときどきは發作的な欲望にも襲はれるのであつた。彼女のしなやかな手足は僕に、それらと僕の手足とをネクタイのやうに固く結びつける快感を豫想させた。そして僕は彼女の齒を、それと僕の齒とがぶつかつて立てる微かな音を感ぜずには、見ることが出來なくなつた。
 槇が彼女と一しよに公園やシネマに出かけてゐたことが、思ひ出すごとに僕に苦痛を與へずにはおかないその思ひ出そのものが、同時に僕にその空想の可能性を信じさせるのであつた。僕はそれをどういふ風に彼女に要求したらいいか? 僕は槇の方法を思ひ出した。愛の手紙による方法。しかしその不幸な前例は僕を迷信的にした。僕は他の方法を探した。そして僕はその中の一つを選んだ。機會を待つてゐる方法。

 最もよい機會。僕のグラスがからつぽになる。僕はウエイトレスを呼ぶ。彼女が僕のところに來ようとする。それと同時に、他のウエイトレスもまた僕のところに來ようとする。二人はすぐそれに氣づいて、微笑しながら、ためらひあふ。その時、彼女が思ひ切つたやうに僕の方に歩き出す。さういふ彼女が僕に思ひがけない勇氣を與へる。
「クラレツト!」僕は彼女に言ふ。「それからね……」
 彼女は僕のテイブルから少し足を離しかけて、そのまま彼女の顏を僕に近づける。
「明日の朝ね、公園に來てくれない。一寸君に話したいことがあるんだ」
「さうですの……」
 彼女はすこし顏を赤らめながら、それを僕から遠のかせる。そして足をすこし踏み出してゐた以前の姿勢に返ると、そのまま顏を下にむけて行つてしまふ。僕は、よく馴れた小鳥をそれが又すぐ戻つてくるのを信じながら自分の手から飛び立たせる人のやうな氣輕さをもつて待つてゐる。果して、彼女は再びクラレツトを持つて來る。僕は彼女に眼で合圖をする。
「九時頃でいいの」
「ああ」
 僕と彼女はすこし狡さうに微笑しあふ。それから彼女は僕のテイブルを離れて行く。

 僕はカフエ・シヤノアルを出ると、それから明日の朝までの間をどうしてゐたらいいのか全く分らなかつた。僕にはその間が非常に空虚なやうに思はれた。僕は少しも睡眠を欲しがらずにベツドに入つた。ふと槇の顏が浮んできた。が、すぐ彼女の顏がその上に浮んで、狡さうに笑ひながら、それを隱してしまつた。それから僕はほんの少しの間眠つた。――そして僕がベツドから起き上つたのは、まだ早朝だつた。僕は家中を歩きまはり、誰にでもかまはず大聲で話しかけ、そして殆ど朝飯に手をつけようとしなかつた。僕の母は氣狂のやうに僕を扱つた。

          5

 漸く彼女が來る。
 僕はステツキを落しながらベンチから立上る。僕の心臟は強く鼓動する。僕には彼女の顏が正確に見えない。
 僕は再び彼女と共にベンチに腰を下す。僕は彼女の傍にゐることにいくらか慣れる。僕は彼女の顏をはじめて太陽の光によつて見るのであることに氣づく。それは電氣の光でいつも見てばかりゐた顏と少し異ふやうに見える。太陽は彼女の頬に新鮮な生《なま》な肉を與へてゐる。
 僕はそれを感動して見つめる。彼女は僕にそんなに見つめられるのを恐れてゐるやうに見える。しかし彼女は注意深くしてゐる。彼女は殆ど身動きをしない。そしてときどき輕い咳をする。僕はたえず何か喋舌つてゐる。僕は沈默を欲しながら、それを恐れてゐる。僕の欲してゐるのは、彼女の手を握りながら、彼女の身體に僕の身體をくつつけてゐることのみが僕等に許すであらう沈默だからだ。
 僕は僕自身のことを話す。それから友達のことを話す。そしてときどき彼女のことを尋ねる。しかし僕は彼女の返事を待つてゐない。僕はそれを恐れるかのやうに、又、僕自身のことを話しはじめる。そして僕の話はふと友達のことに觸れる。突然、彼女が僕をさへぎる。
「槇さんたちは私のことを怒つていらつしやるの?」
 彼女の言葉がいきなり僕から僕の局部を麻痺させてゐた藥を取り去る。
 僕は前に經驗したことのある痛みが僕の中に再び起るのを感じる。僕はやつと、あれから槇には自分も會はないと答へる。そして僕は呼吸《いき》の止まるやうな氣がする。僕はもう一言も物が云へない。その僕の烈しい變化にもかかはらず、彼女は前と同じやうに默つてゐる。さういふ彼女が僕にはひどく冷淡なやうに思はれる。そのうちに彼女は、だんだん不自然になつてくる沈默を僕がどうしようともしないの
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