欲した。
「これを金にしないか」
 僕はその腕時計を外して、それを槇に渡した。
「これあ、いい時計だな」
 さう言ひながら、僕の腕時計を手にとつて見てゐる槇を、僕は少女のやうな眼つきで、ぢつと見つめてゐた。

 十時頃、ジジ・バアの中へ僕等は入つて行つた。入つて行きながら、僕は椅子につまづいて、それを一人の痩せた男の足の上に倒した。僕は笑つた。その男は立上つて、僕の腕を掴まへようとした。槇が横から男の胸を突いた。男はよろめいて元の椅子に尻をついた。そして再び立上らうとするのを、隣りの男に止められた。男は僕等を罵つた。僕等は笑ひながら一つの汚ないテイブルのまはりに坐つた。するとそこへ薄い半透明な着物をきた一人の女が近づいて來た。そして僕と槇との間に無理に割り込んで坐つた。
「飮むかい」槇は自分のウイスキイのグラスを女の前に置いた。
 女はそのグラスを手に持たうとしないで、それを透かすやうに見てゐた。友人の一人が一方の眼をつぶり、他方の眼を大きく開けながら、皮肉さうに彼等を僕に示した。僕は眼たたきをしてそれに答へた。
 その女はどこかシヤノアルの女に似てゐた。その類似が僕を非常に動かした。しかし、それは僕に複製の寫眞版を思ひ起させた。この女の細部の感じは後者と比べられないくらゐ粗雜だつた。
 女はやつとウイスキイのグラスを取上げて、一口それを飮むと、再び槇の前に置きかへした。槇はその殘りを一息に飮み干した。女はだんだん露骨に槇に身體をくつつけて行きながら、彼を上眼でにらんだり、脣をとがらしたり、腮《あご》を突き出したりした。さういふ動作はその女に思ひがけない魅力を與へた。それが僕の前で、シヤノアルの女の内氣な、そのため冷たいやうにさへ見える動作と著しい對照をなした。僕はこの二人が何處か似てゐるやうで實は何處も似てゐないことを、つまり二人は全てを除いて似てゐるのであることを知つた。そして僕はそこに槇の現在の苦痛を見出すやうな氣がした。
 その槇の苦痛が僕の中に少しづつ浸透してきた。そしてそこで、僕と彼と彼女のそれぞれの苦痛が一しよに混り合つた。僕はこの三つのものが僕自身の中で爆發性のある混合物を作り出しはしないかと恐れた。
 偶然、女の手と僕の手が觸れ合つた。
「まあ冷たい手をしてゐることね」
 女は僕の手を握りしめた。僕はそれにプロフエシヨナルな冷たさしか感じなかつた。
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