P−86−12]《ぶな》の裸根から荒々しく立ち上った。
 太陽はすでに高く昇っていた。山や森や村や畑、――そうしたすべてのものは秋の穏かな日の中にいかにも安定したように浮んでいた。かなたに小さく見えるサナトリウムの建物の中でも、すべてのものは毎日の習慣を再び取り出しているのに違いなかった。そのうち不意に、それらの見知らぬ人々の間で、いつもの習慣から取残されたまま、一人でしょんぼりと私を待っている節子の寂しそうな姿を頭に浮べると、私は急にそれが気になってたまらないように、急いで山径《やまみち》を下りはじめた。
 私は裏の林を抜けてサナトリウムに帰った。そしてバルコンを迂回《うかい》しながら、一番はずれの病室に近づいて行った。私には少しも気がつかずに、節子は、ベッドの上で、いつもしているように髪の先きを手でいじりながら、いくぶん悲しげな目つきで空《くう》を見つめていた。私は窓硝子《まどガラス》を指で叩こうとしたのをふと思い止まりながら、そういう彼女の姿をじっと見入った。彼女は何かに脅かされているのを漸《や》っと怺《こら》ているとでも云った様子で、それでいてそんな様子をしていることなどは恐ら
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