ュ彼女自身も気がついていないのだろうと思える位、ぼんやりしているらしかった。……私は心臓をしめつけられるような気がしながら、そんな見知らない彼女の姿を見つめていた。……と突然、彼女の顔が明るくなったようだった。彼女は顔をもたげて、微笑さえしだした。彼女は私を認めたのだった。
 私はバルコンからはいりながら、彼女の側に近づいて行った。
「何を考えていたの?」
「なんにも……」彼女はなんだか自分のでないような声で返事をした。
 私がそのまま何も言い出さずに、すこし気が鬱《ふさ》いだように黙っていると、彼女は漸っといつもの自分に返ったような、親密な声で、「何処へ行っていらしったの? 随分長かったのね」
 と私に訊《き》いた。
「向うの方だ」私は無雑作にバルコンの真正面に見える遠い森の方を指した。
「まあ、あんなところまで行ったの? ……お仕事は出来そう?」
「うん、まあ……」私はひどく無愛想に答えたきり、しばらくまた元のような無言に返っていたが、それから出し抜けに私は、
「お前、いまのような生活に満足しているかい?」
 といくらか上ずったような声で訊いた。
 彼女はそんな突拍子もない質問にちょっとたじろいだ様子をしていたが、それから私をじっと見つめ返して、いかにもそれを確信しているように頷《うなず》きながら、
「どうしてそんなことをお訊きになるの?」
 と不審《いぶか》しそうに問い返した。
「おれは何んだかいまのような生活がおれの気まぐれなのじゃないかと思ったんだ。そんなものをいかにも大事なもののようにこうやってお前にも……」
「そんなこと言っちゃ厭《いや》」彼女は急に私を遮った。「そんなことを仰《おっ》しゃるのがあなたの気まぐれなの」
 けれども私はそんな言葉にはまだ満足しないような様子を見せていた。彼女はそういう私の沈んだ様子をしばらくは唯もじもじしながら見守っていたが、とうとう怺え切れなくなったとでも言うように言い出した。
「私が此処でもって、こんなに満足しているのが、あなたにはおわかりにならないの? どんなに体の悪いときでも、私は一度だって家へ帰りたいなんぞと思ったことはないわ。若《も》しあなたが私の側に居て下さらなかったら、私は本当にどうなっていたでしょう? ……さっきだって、あなたがお留守の間、最初のうちはそれでもあなたのお帰りが遅ければ遅いほど、お帰りになっ
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