フ腕に抱かれながら、ただその残される者の悲しみを悲しみながら、自分はさも幸福そうに死んで行った娘、――そんな娘の影像が空《くう》に描いたようにはっきりと浮んでくる。……「男は自分達の愛を一層純粋なものにしようと試みて、病身の娘を誘うようにして山のサナトリウムにはいって行くが、死が彼等を脅かすようになると、男はこうして彼等が得ようとしている幸福は、果してそれが完全に得られたにしても彼等自身を満足させ得るものかどうかを、次第に疑うようになる。――が、娘はその死苦のうちに最後まで自分を誠実に介抱して呉れたことを男に感謝しながら、さも満足そうに死んで行く。そして男はそういう気高い死者に助けられながら、やっと自分達のささやかな幸福を信ずることが出来るようになる……」
そんな物語の結末がまるで其処に私を待ち伏せてでも居たかのように見えた。そして突然、そんな死に瀕《ひん》した娘の影像が思いがけない烈しさで私を打った。私はあたかも夢から覚めたかのように何んともかとも言いようのない恐怖と羞恥とに襲われた。そしてそういう夢想を自分から振り払おうとでもするように、私は腰かけていた※[#「木+無」、第3水準1−86−12]《ぶな》の裸根から荒々しく立ち上った。
太陽はすでに高く昇っていた。山や森や村や畑、――そうしたすべてのものは秋の穏かな日の中にいかにも安定したように浮んでいた。かなたに小さく見えるサナトリウムの建物の中でも、すべてのものは毎日の習慣を再び取り出しているのに違いなかった。そのうち不意に、それらの見知らぬ人々の間で、いつもの習慣から取残されたまま、一人でしょんぼりと私を待っている節子の寂しそうな姿を頭に浮べると、私は急にそれが気になってたまらないように、急いで山径《やまみち》を下りはじめた。
私は裏の林を抜けてサナトリウムに帰った。そしてバルコンを迂回《うかい》しながら、一番はずれの病室に近づいて行った。私には少しも気がつかずに、節子は、ベッドの上で、いつもしているように髪の先きを手でいじりながら、いくぶん悲しげな目つきで空《くう》を見つめていた。私は窓硝子《まどガラス》を指で叩こうとしたのをふと思い止まりながら、そういう彼女の姿をじっと見入った。彼女は何かに脅かされているのを漸《や》っと怺《こら》ているとでも云った様子で、それでいてそんな様子をしていることなどは恐ら
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