゙女の傍に帰った。私は再び本を取り上げて、それを読み出した。
「どうしたの?」彼女は顔を上げながら私に問うた。
「何んでもない」私は無造作にそう答えて、数秒時本の方に気をとられているような様子をしていたが、とうとう私は口を切った。
「こっちへ来てあんまり何もせずにしまったから、僕はこれから仕事でもしようかと考え出しているのさ」
「そうよ、お仕事をなさらなければいけないわ。お父様もそれを心配なさっていたわ」彼女は真面目な顔つきをして返事をした。「私なんかのことばかり考えていないで……」
「いや、お前のことをもっともっと考えたいんだ……」私はそのとき咄嗟《とっさ》に頭に浮んで来た或る小説の漠としたイデエをすぐその場で追い廻し出しながら、独り言のように言い続けた。「おれはお前のことを小説に書こうと思うのだよ。それより他のことは今のおれには考えられそうもないのだ。おれ達がこうしてお互に与え合っているこの幸福、――皆がもう行き止まりだと思っているところから始っているようなこの生の愉しさ、――そう云った誰も知らないような、おれ達だけのものを、おれはもっと確実なものに、もうすこし形をなしたものに置き換えたいのだ。分るだろう?」
「分るわ」彼女は自分自身の考えでも逐《お》うかのように私の考えを逐っていたらしく、それにすぐ応じた。が、それから口をすこし歪めるように笑いながら、
「私のことならどうでもお好きなようにお書きなさいな」と私を軽く遇《あしら》うように言い足した。
私はしかし、その言葉を率直に受取った。
「ああ、それはおれの好きなように書くともさ。……が、今度の奴はお前にもたんと助力して貰わなければならないのだよ」
「私にも出来ることなの?」
「ああ、お前にはね、おれの仕事の間、頭から足のさきまで幸福になっていて貰いたいんだ。そうでないと……」
一人でぼんやりと考え事をしているのよりも、こうやって二人で一緒に考え合っているみたいな方が、余計自分の頭が活溌に働くのを異様に感じながら、私はあとからあとからと湧いてくる思想に押されでもするかのように、病室の中をいつか往ったり来たりし出していた。
「あんまり病人の側にばかりいるから、元気がなくなるのよ。……すこしは散歩でもしていらっしゃらない?」
「うん、おれも仕事をするとなりあ」と私は目を赫《かがや》かせながら、元気よく答えた。「
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