「じらしい気持が、私の心をしめつけていた。そういう犠牲をまで病人に当然の代償のように払わせながら、それがいつ死の床になるかも知れぬようなベッドで、こうして病人と共に愉《たの》しむようにして味わっている生の快楽――それこそ私達を、この上なく幸福にさせてくれるものだと私達が信じているもの、――それは果して私達を本当に満足させ了《おお》せるものだろうか? 私達がいま私達の幸福だと思っているものは、私達がそれを信じているよりは、もっと束の間のもの、もっと気まぐれに近いようなものではないだろうか? ……
 夜伽に疲れた私は、病人の微睡《まどろ》んでいる傍で、そんな考えをとつおいつしながら、この頃ともすれば私達の幸福が何物かに脅かされがちなのを、不安そうに感じていた。


 その危機は、しかし、一週間ばかりで立ち退いた。
 或る朝、看護婦がやっと病室から日覆を取り除けて、窓の一部を開け放して行った。窓から射し込んで来る秋らしい日光をまぶしそうにしながら、
「気持がいいわ」と病人はベッドの中から蘇《よみがえ》ったように言った。
 彼女の枕元で新聞を拡げていた私は、人間に大きな衝動を与える出来事なんぞと云うものは却《かえ》ってそれが過ぎ去った跡は何んだかまるで他所《よそ》の事のように見えるものだなあと思いながら、そういう彼女の方をちらりと見やって、思わず揶揄《やゆ》するような調子で言った。
「もうお父さんが来たって、あんなに興奮しない方がいいよ」
 彼女は顔を心持ち赧《あか》らめながら、そんな私の揶揄を素直に受け入れた。
「こんどはお父様がいらっしたって知らん顔をして居てやるわ」
「それがお前に出来るんならねえ……」
 そんな風に冗談でも言い合うように、私達はお互に相手の気持をいたわり合うようにしながら、一緒になって子供らしく、すべての責任を彼女の父に押しつけ合ったりした。
 そうして私達は少しもわざとらしくなく、この一週間の出来事がほんの何かの間違いに過ぎなかったような、気軽な気分になりながら、いましがたまで私達を肉体的ばかりでなく、精神的にも襲いかかっているように見えた危機を、事もなげに切り抜け出していた。少くとも私達にはそう見えた。……


 或る晩、私は彼女の側で本を読んでいるうち、突然、それを閉じて、窓のところに行き、しばらく考え深そうに佇《たたず》んでいた。それから又、
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