燃ゆる頬
堀辰雄

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)蜂《はち》の巣

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)彼|等《ら》

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「てへん+毟」、第4水準2−78−12]
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 私は十七になった。そして中学校から高等学校へはいったばかりの時分であった。
 私の両親は、私が彼|等《ら》の許《もと》であんまり神経質に育つことを恐れて、私をそこの寄宿舎に入れた。そういう環境の変化は、私の性格にいちじるしい影響を与えずにはおかなかった。それによって、私の少年時からの脱皮は、気味悪いまでに促されつつあった。
 寄宿舎は、あたかも蜂《はち》の巣のように、いくつもの小さい部屋に分れていた。そしてその一つ一つの部屋には、それぞれ十人余りの生徒等が一しょくたに生きていた。それに部屋とは云うものの、中にはただ、穴だらけの、大きな卓《つくえ》が二つ三つ置いてあるきりだった。そしてその卓の上には誰のものともつかず、白筋のはいった制帽とか、辞書とか、ノオトブックとか、インク壺《つぼ》とか、煙草の袋とか、それらのものがごっちゃになって積まれてあった。そんなものの中で、或る者は独逸《ドイツ》語の勉強をしていたり、或る者は足のこわれかかった古椅子にあぶなっかしそうに馬乗りになって煙草ばかり吹かしていた。私は彼等の中で一番小さかった。私は彼等から仲間はずれにされないように、苦しげに煙草をふかし、まだ髭《ひげ》の生《は》えていない頬《ほお》にこわごわ剃刀《かみそり》をあてたりした。
 二階の寝室はへんに臭かった。その汚《よご》れた下着類のにおいは私をむかつかせた。私が眠ると、そのにおいは私の夢の中にまで入ってきて、まだ現実では私の見知らない感覚を、その夢に与えた。私はしかし、そのにおいにもだんだん慣れて行った。
 こうして私の脱皮はすでに用意されつつあった。そしてただ最後の一撃だけが残されていた……

 或る日の昼休みに、私は一人でぶらぶらと、植物実験室の南側にある、ひっそりした花壇のなかを歩いていた。そのうちに、私はふと足を止めた。そこの一隅に簇《むら》がりながら咲いている、私の名前を知らない真白な花から、花粉まみれになって、一匹の蜜蜂《みつばち》の飛び立つのを見つけたのだ。そこで、その蜜蜂がその足にくっついている花粉の塊《かたま》りを、今度はどの花へ持っていくか、見ていてやろうと思ったのである。しかし、そいつはどの花にもなかなか止まりそうもなかった。そしてあたかもそれらの花のどれを選んだらいいかと迷っているようにも見えた。……その瞬間だった。私はそれらの見知らない花が一せいに、その蜜蜂を自分のところへ誘おうとして、なんだかめいめいの雌蕋《めしべ》を妙な姿態にくねらせるのを認めたような気がした。
 ……そのうちに、とうとうその蜜蜂は或る花を選んで、それにぶらさがるようにして止まった。その花粉まみれの足でその小さな柱頭にしがみつきながら。やがてその蜜蜂はそれからも飛び立っていった。私はそれを見ると、なんだか急に子供のような残酷な気持になって、いま受精を終ったばかりの、その花をいきなり※[#「てへん+毟」、第4水準2−78−12]《むし》りとった。そしてじいっと、他の花の花粉を浴びている、その柱頭に見入っていたが、しまいには私はそれを私の掌《て》で揉《も》みくちゃにしてしまった。それから私はなおも、さまざまな燃えるような紅や紫の花の咲いている花壇のなかをぶらついていた。その時、その花壇にT字形をなして面している植物実験室の中から、硝子戸《ガラスど》ごしに私の名前を呼ぶものがあった。見ると、それは魚住《うおずみ》と云う上級生であった。
「来て見たまえ。顕微鏡を見せてやろう……」
 その魚住と云う上級生は、私の倍もあるような大男で、円盤投げの選手をしていた。グラウンドに出ているときの彼は、その頃私たちの間に流行していた希臘《ギリシヤ》彫刻の独逸製の絵はがきの一つの、「円盤投手《ディスカスヴェルフェル》」と云うのに少し似ていた。そしてそれが下級生たちに彼を偶像化させていた。が、彼は誰に向っても、何時《いつ》も人を馬鹿にしたような表情を浮べていた。私はそういう彼の気に入りたいと思った。私はその植物実験室のなかへ這入《はい》っていった。
 そこには魚住ひとりしかいなかった。彼は毛ぶかい手で、不器用そうに何かのプレパラアトをつくっていた。そしてときどきツァイスの顕微鏡でそれを覗《のぞ》いていた。それからそれを私にも覗かせた。私はそれを見るためには、身体を海老《えび》のように折り曲げていなければならなかった。
「見えるか?」
「ええ……」
 私はそういうぎごちない姿勢を続けながら、しかしもう一方の、顕微鏡を見ていない眼でもって、そっと魚住の動作を窺《うかが》っていた。すこし前から私は彼の顔が異様に変化しだしたのに気づいていた。そこの実験室の中の明るい光線のせいか、それとも彼が何時もの仮面をぬいでいるせいか、彼の頬の肉は妙にたるんでいて、その眼は真赤に充血していた。そして口許《くちもと》にはたえず少女のような弱弱しい微笑をちらつかせていた。私は何とはなしに、今のさっき見たばかりの一匹の蜜蜂と見知らない真白な花のことを思い出した。彼の熱い呼吸が私の頬にかかって来た……
 私はついと顕微鏡から顔を上げた。
「もう、僕……」と腕時計を見ながら、私は口ごもるように云った。
「教室へ行かなくっちゃ……」
「そうか」
 いつのまにか魚住は巧妙に新しい仮面をつけていた。そしていくぶん青くなっている私の顔を見下ろしながら、彼は平生の、人を馬鹿にしたような表情を浮べていた。

        ※[#「アステリズム、1−12−94]

 五月になってから、私たちの部屋に三枝《さいぐさ》と云う私の同級生が他から転室してきた。彼は私より一つだけ年上だった。彼が上級生たちから少年視されていたことはかなり有名だった。彼は瘠《や》せた、静脈の透いて見えるような美しい皮膚の少年だった。まだ薔薇《ばら》いろの頬の所有者、私は彼のそういう貧血性の美しさを羨《うらや》んだ。私は教室で、屡《しばしば》、教科書の蔭から、彼のほっそりした頸《くび》を偸《ぬす》み見ているようなことさえあった。
 夜、三枝は誰よりも先に、二階の寝室へ行った。
 寝室は毎夜、規定の就眠時間の十時にならなければ電燈がつかなかった。それだのに彼は九時頃から寝室へ行ってしまうのだった。私はそんな闇《やみ》のなかで眠っている彼の寝顔を、いろんな風に夢みた。
 しかし私は習慣から十二時頃にならなければ寝室へは行かなかった。
 或る夜、私は喉《のど》が痛かった。私はすこし熱があるように思った。私は三枝が寝室へ行ってから間もなく、西洋|蝋燭《ろうそく》を手にして階段を昇って行った。そして何の気なしに自分の寝室のドアを開けた。そのなかは真暗だったが、私の手にしていた蝋燭が、突然、大きな鳥のような恰好《かっこう》をした異様な影を、その天井に投げた。それは格闘か何んかしているように、無気味に、揺れ動いていた。私の心臓はどきどきした。……が、それは一瞬間に過ぎなかった。私がその天井に見出した幻影は、ただ蝋燭の光りの気まぐれな動揺のせいらしかった。何故《なぜ》なら、私の蝋燭の光りがそれほど揺れなくなった時分には、ただ、三枝が壁ぎわの寝床に寝ているほか、その枕《まくら》もとに、もうひとりの大きな男が、マントをかぶったまま、むっつりと不機嫌《ふきげん》そうに坐っているのを見たきりであったから……
「誰だ?」とそのマントをかぶった男が私の方をふりむいた。
 私は惶《あわ》てて私の蝋燭を消した。それが魚住らしいのを認めたからだった。私はいつかの植物実験室の時から、彼が私を憎んでいるにちがいないと信じていた。私は黙ったまま、三枝の隣りの、自分のうす汚《よご》れた蒲団《ふとん》の中にもぐり込んだ。
 三枝もさっきから黙っているらしかった。
 私の悪い喉をしめつけるような数分間が過ぎた。その魚住らしい男はとうとう立上った。そして何も云わずに暗がりの中で荒あらしい音を立てながら、寝室を出て行った。その足音が遠のくと、私は三枝に、
「僕は喉が痛いんだ……」とすこし具合が悪そうに云った。
「熱はないの?」彼が訊《き》いた。
「すこしあるらしいんだ」
「どれ、見せたまえ……」
 そう云いながら三枝は自分の蒲団からすこし身体をのり出して、私のずきずきする顳※[#「需+頁」、第3水準1−94−6]《こめかみ》の上に彼の冷たい手をあてがった。私は息をつめていた。それから彼は私の手頸《てくび》を握った。私の脈を見るのにしては、それは少しへんてこな握り方だった。それだのに私は、自分の脈搏《みゃくはく》の急に高くなったのを彼に気づかれはしまいかと、そればかり心配していた……
 翌日、私は一日中寝床の中にもぐりながら、これからも毎晩早く寝室へ来られるため、私の喉の痛みが何時までも癒《なお》らなければいいとさえ思っていた。

 数日後、夕方から私の喉がまた痛みだした。私はわざと咳《せき》をしながら、三枝のすぐ後から寝室に行った。しかし、彼の床はからっぽだった。何処《どこ》へ行ってしまったのか、彼はなかなか帰って来なかった。
 一時間ばかり過ぎた。私はひとりで苦しがっていた。私は自分の喉がひどく悪いように思い、ひょっとしたら自分はこの病気で死んでしまうかも知れないなぞと考えたりしていた。
 彼はやっと帰って来た。私はさっきから自分の枕許に蝋燭をつけぱなしにしておいた。その光りが、服をぬごうとして身もだえしている彼の姿を、天井に無気味に映した。私はいつかの晩の幻を思い浮べた。私は彼に今まで何処へ行っていたのかと訊いた。彼は眠れそうもなかったからグラウンドを一人で散歩して来たのだと答えた。それはいかにも嘘《うそ》らしい云い方だった。が、私はなんにも云わずにいた。
「蝋燭はつけておくのかい?」彼が訊いた。
「どっちでもいいよ」
「じゃ、消すよ……」
 そう云いながら、彼は私の枕許の蝋燭を消すために、彼の顔を私の顔に近づけてきた。私は、その長い睫毛《まつげ》のかげが蝋燭の光りでちらちらしている彼の頬を、じっと見あげていた。私の火のようにほてった頬には、それが神々《こうごう》しいくらい冷たそうに感ぜられた。

 私と三枝との関係は、いつしか友情の限界を超《こ》え出したように見えた。しかしそのように三枝が私に近づいてくるにつれ、その一方では、魚住がますます寄宿生たちに対して乱暴になり、時々グラウンドに出ては、ひとりで狂人のように円盤投げをしているのが、見かけられるようになった。
 そのうちに学期試験が近づいてきた。寄宿生たちはその準備をし出した。魚住がその試験を前にして、寄宿舎から姿を消してしまったことを私たちは知った。しかし私たちは、それについては口をつぐんでいた。

        ※[#アステリズム、1−12−94]

 夏休みになった。
 私は三枝と一週間ばかりの予定で、或る半島へ旅行しようとしていた。
 或るどんよりと曇った午前、私たちはまるで両親をだまして悪戯《いたずら》かなんかしようとしている子供らのように、いくぶん陰気になりながら、出発した。
 私たちはその半島の或る駅で下り、そこから二里ばかり海岸に沿うた道を歩いた後、鋸《のこぎり》のような形をした山にいだかれた、或る小さな漁村に到着した。宿屋はもの悲しかった。暗くなると、何処からともなく海草の香りがしてきた。少婢《こおんな》がランプをもって入ってきた、私はそのうす暗いランプの光りで、寝床へ入ろうとしてシャツをぬいでいる、三枝の裸かになった脊中に、一ところだけ脊骨が妙な具合に突起しているのを見つけた。私は何だかそれがいじってみたくなった。そして私はそこの
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