らなかった。
「見えるか?」
「ええ……」
私はそういうぎごちない姿勢を続けながら、しかしもう一方の、顕微鏡を見ていない眼でもって、そっと魚住の動作を窺《うかが》っていた。すこし前から私は彼の顔が異様に変化しだしたのに気づいていた。そこの実験室の中の明るい光線のせいか、それとも彼が何時もの仮面をぬいでいるせいか、彼の頬の肉は妙にたるんでいて、その眼は真赤に充血していた。そして口許《くちもと》にはたえず少女のような弱弱しい微笑をちらつかせていた。私は何とはなしに、今のさっき見たばかりの一匹の蜜蜂と見知らない真白な花のことを思い出した。彼の熱い呼吸が私の頬にかかって来た……
私はついと顕微鏡から顔を上げた。
「もう、僕……」と腕時計を見ながら、私は口ごもるように云った。
「教室へ行かなくっちゃ……」
「そうか」
いつのまにか魚住は巧妙に新しい仮面をつけていた。そしていくぶん青くなっている私の顔を見下ろしながら、彼は平生の、人を馬鹿にしたような表情を浮べていた。
※[#「アステリズム、1−12−94]
五月になってから、私たちの部屋に三枝《さいぐさ》と云う私の同級生が他から転室してきた。彼は私より一つだけ年上だった。彼が上級生たちから少年視されていたことはかなり有名だった。彼は瘠《や》せた、静脈の透いて見えるような美しい皮膚の少年だった。まだ薔薇《ばら》いろの頬の所有者、私は彼のそういう貧血性の美しさを羨《うらや》んだ。私は教室で、屡《しばしば》、教科書の蔭から、彼のほっそりした頸《くび》を偸《ぬす》み見ているようなことさえあった。
夜、三枝は誰よりも先に、二階の寝室へ行った。
寝室は毎夜、規定の就眠時間の十時にならなければ電燈がつかなかった。それだのに彼は九時頃から寝室へ行ってしまうのだった。私はそんな闇《やみ》のなかで眠っている彼の寝顔を、いろんな風に夢みた。
しかし私は習慣から十二時頃にならなければ寝室へは行かなかった。
或る夜、私は喉《のど》が痛かった。私はすこし熱があるように思った。私は三枝が寝室へ行ってから間もなく、西洋|蝋燭《ろうそく》を手にして階段を昇って行った。そして何の気なしに自分の寝室のドアを開けた。そのなかは真暗だったが、私の手にしていた蝋燭が、突然、大きな鳥のような恰好《かっこう》をした異様な影を、その天井に投
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