なって、一匹の蜜蜂《みつばち》の飛び立つのを見つけたのだ。そこで、その蜜蜂がその足にくっついている花粉の塊《かたま》りを、今度はどの花へ持っていくか、見ていてやろうと思ったのである。しかし、そいつはどの花にもなかなか止まりそうもなかった。そしてあたかもそれらの花のどれを選んだらいいかと迷っているようにも見えた。……その瞬間だった。私はそれらの見知らない花が一せいに、その蜜蜂を自分のところへ誘おうとして、なんだかめいめいの雌蕋《めしべ》を妙な姿態にくねらせるのを認めたような気がした。
 ……そのうちに、とうとうその蜜蜂は或る花を選んで、それにぶらさがるようにして止まった。その花粉まみれの足でその小さな柱頭にしがみつきながら。やがてその蜜蜂はそれからも飛び立っていった。私はそれを見ると、なんだか急に子供のような残酷な気持になって、いま受精を終ったばかりの、その花をいきなり※[#「てへん+毟」、第4水準2−78−12]《むし》りとった。そしてじいっと、他の花の花粉を浴びている、その柱頭に見入っていたが、しまいには私はそれを私の掌《て》で揉《も》みくちゃにしてしまった。それから私はなおも、さまざまな燃えるような紅や紫の花の咲いている花壇のなかをぶらついていた。その時、その花壇にT字形をなして面している植物実験室の中から、硝子戸《ガラスど》ごしに私の名前を呼ぶものがあった。見ると、それは魚住《うおずみ》と云う上級生であった。
「来て見たまえ。顕微鏡を見せてやろう……」
 その魚住と云う上級生は、私の倍もあるような大男で、円盤投げの選手をしていた。グラウンドに出ているときの彼は、その頃私たちの間に流行していた希臘《ギリシヤ》彫刻の独逸製の絵はがきの一つの、「円盤投手《ディスカスヴェルフェル》」と云うのに少し似ていた。そしてそれが下級生たちに彼を偶像化させていた。が、彼は誰に向っても、何時《いつ》も人を馬鹿にしたような表情を浮べていた。私はそういう彼の気に入りたいと思った。私はその植物実験室のなかへ這入《はい》っていった。
 そこには魚住ひとりしかいなかった。彼は毛ぶかい手で、不器用そうに何かのプレパラアトをつくっていた。そしてときどきツァイスの顕微鏡でそれを覗《のぞ》いていた。それからそれを私にも覗かせた。私はそれを見るためには、身体を海老《えび》のように折り曲げていなければな
前へ 次へ
全10ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
堀 辰雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング