の乗り込んだ三等客車の混雑のなかで、私たちは出来るだけ相手を苦しめまいと努力し合っていた。それはもはや愛の休止符だ。そして私は何故かしら三枝にはもうこれっきり会えぬように感じていた。彼は何度も私の手を握った。私は私の手を彼の自由にさせていた。しかし私の耳は、ときどき、何処からともなく、ちぎれちぎれになって飛んでくる、例の少女の異様な声ばかり聴《き》いていた。
別れの時はもっとも悲しかった。私は、自分の家へ帰るにはその方が便利な郊外電車に乗り換えるために、或る途中の駅で汽車から下りた。私は混雑したプラットフォムの上を歩き出しながら、何度も振りかえって汽車の中にいる彼の方を見た。彼は雨でぐっしょり濡《ぬ》れた硝子窓に顔をくっつけて、私の方をよく見ようとしながら、かえって自分の呼吸でその硝子を白く曇らせ、そしてますます私の方を見えなくさせていた。
※[#アステリズム、1−12−94]
八月になると、私は私の父と一しょに信州の或る湖畔へ旅行した。そして私はその後、三枝には会わなかった。彼は屡《しばしば》、その湖畔に滞在中の私に、まるでラヴ・レタアのような手紙をよこした。しかし私はだんだんそれに返事を出さなくなった。すでに少女らの異様な声が私の愛を変えていた。私は彼の最近の手紙によって彼が病気になったことを知った。脊椎カリエスが再発したらしかった。が、それにも私は遂《つい》に手紙を出さずにしまった。
秋の新学期になった。湖畔から帰ってくると、私は再び寄宿舎に移った。しかし其処《そこ》ではすべてが変っていた。三枝はどこかの海岸へ転地していた。魚住はもはや私を空気を見るようにしか見なかった。……冬になった。或る薄氷りの張っている朝、私は校内の掲示板に三枝の死が報じられてあるのを見出《みいだ》した。私はそれを未知の人でもあるかのように、ぼんやりと見つめていた。
※[#アステリズム、1−12−94]
それから数年が過ぎた。
その数年の間に私はときどきその寄宿舎のことを思い出した。そして私は其処に、私の少年時の美しい皮膚を、丁度|灌木《かんぼく》の枝にひっかかっている蛇《へび》の透明な皮のように、惜しげもなく脱いできたような気がしてならなかった。――そしてその数年の間に、私はまあ何んと多くの異様な声をした少女らに出会ったことか! が、そ
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