風に私たちの歩いている山径《やまみち》の見当がちょっと付きかねていたのだけれど、私はわざとそれを冗談《じょうだん》のように言い紛《まぎ》らわせていたのだった。
――その日、私が私の「美しい村」の物語の中に描《えが》いた、二人の老嬢《ろうじょう》たちのもと住まっていた、あの見棄《みす》てられた、古いヴィラの話を彼女にして聞かせると、それをしきりに見たがったので、私自身はもうそんなものは見たくもなかったのだけれど、その荒《あ》れ果てたヴェランダから夕暮《ゆうぐ》れの眺めがいかにも美しかったのを思い出して、夕食後、ともかくもそのヴィラまで登って行ってみることにした。恐らくあの家はまだあのまんまになっているだろうと予想しながら。……が、だんだんそのヴィラが近づいてくるにつれ、私は何んだか急にそんな自分の夢《ゆめ》の残骸《ざんがい》のようなものを見に行くのが厭《いや》な気がし出したので、そろそろ日が暮れかけて来たのをいい口実に、まだ山径がこれからなかなか大へんだからと言って、私たちはその途中から引っ返すことにした。――その帰り途《みち》、私はその代りに、まだ彼女が知らないというベルヴェデエルの丘《おか》の方へ彼女を案内するため、いましがた登ってきたのとは異《ちが》った山径を選んでいるうちに、どう道を間違《まちが》えたのか、そのへんからもう下り道になってもよさそうな時分だのに、いつまでもそれが爪先《つまさ》き上りになっていて、私たちはその村の中心からはますます反対の方へ向いつつあるような気がしてきた。まだこの村にこんな私の知らない部分があることを心のうちでは驚《おどろ》きながら、しかし私はそのへんをいかにも知り抜《ぬ》いているように装《よそお》いながら、さっさと彼女を導いて行った。が、私たちはともすると無言になるのだった。……いつのまにやらもうすっかり日が暮れていた。私たちの歩いている道の両側の落葉松《からまつ》などが伸《の》び切って、すこし立て込《こ》んでいたりすると、私はほとんど彼女の着ているワンピイスの薔薇色《ばらいろ》さえ見さだめがたい位であった。ただときどき彼女の肩《かた》が私の肩にぶつかるので、自分の傍《そば》に彼女を近ぢかと感じながら歩いていた。そうかと思うと、木立の間からだしぬけにその奥《おく》にあるヴィラの灯《あか》りが下枝《したえ》ごしに私たちの肩に落ちて来て、知らず識《し》らずに身をすり寄せていた私たちを思わず離れさせた。――そんなヴィラの数がだんだん増え出して来たらしいことが、いくらか私たちをほっとさせていた。……
突然、私は心臓をしめつけられたように立ち止まった。私はそれらのヴィラに見覚えがあり出すのと同時に、これをこのまま行けば、私がこの日頃そこに近寄るのを努めて避《さ》けるようにしていた、私の昔《むかし》の女友達の別荘《べっそう》の前を通らなければならないことを認めたのだ。そして私は、その一家のものが二三日前からこの村に来ていることを宿の爺《じい》やから聞いて知っていたのだ。しかしもうさんざん彼女を引っ張りまわした挙句《あげく》だったし、私もかなり歩き疲《つか》れていたので、この上|廻《まわ》り道をする気にはなれずに、私は心ならずもその別荘の前を通り抜けて行くことにした。……だんだんその別荘が近づいて来るにつれ、私はますます心臓をしめつけられるような息苦しさを覚えたが、さて、いよいよその別荘の真白《まっしろ》な柵《さく》が私たちの前に現われた瞬間《しゅんかん》には、その柵の中の灯りの一ぱいに落ちている芝生《しばふ》の向うに、すっかり開け放した窓枠《まどわく》の中から、私の見覚えのある古い円卓子《まるテエブル》の一部が見え、その上には、人々が食事から立ち去ってからまだ間もないと言ったように、丸められたナプキンだの、果物の皮の残っている皿《さら》だの、珈琲茶碗《コオヒイぢゃわん》だのが、まだ片づけられずに散らかったまま、まぶしいくらい洋燈《ランプ》の光りを浴びてきらきらと光っているのを、私は自分でも意外なくらいな冷静さをもって認めることが出来た。いい具合《ぐあい》に其処《そこ》には誰《だれ》も居合わさなかったせいか、それともまたそれは、その瞬間までに、私のなかの不安が、既にその絶頂を通り越《こ》してしまっていたせいであったろうか? ともかくも、私はかなり平静に近い気持で、ただちょっと足を早めたきりで、その白い柵の前を通り過ぎることが出来た。……そんな私の心のなかの動揺《どうよう》には気づこう筈《はず》がなく、彼女は急に早足になった私のあとから、何んだか怪訝《けげん》そうについて来ながら、
「まだ、なかなか?」とすこし不安らしく私に声をかけた。
「うん……ますます見当がつかないんだ」
「そんなことばかし言って……」彼女はそんな私の本気とも冗談ともつかないような態度にとうとう腹を立てたように見える。そうしてそんな私を非難するような口吻《くちぶり》で、
「早く帰らない?」と言った。
「じゃ、一人でお帰りなさい」と私はいまはもう微笑《びしょう》らしいものさえ浮《うか》べながら返事をした。
「意地わる!」
「だって、ほら、其処知っているでしょう?」と私は、私たちの行く手の暗がりの中に小さなせせらぎが音立てているのを指しながら、「水車の道じゃないの?」と快活そうに言った。「まあ、本当に……」と彼女はまだ何んだかそれが信じられないと言った風に自分の周囲を見廻わしていた。私たちはすでに、林のなかを抜け出して、昔、水車場のあった跡に佇《たた》ずんでいたのだった。――そこで道が二股《ふたまた》に分かれて、一方は「水車の道」、もう一方は「本通り」へと通じていた。どっちからでも、もうすぐ其処の宿屋へは帰れるのだが、水車の道の方からだと例のかなり嶮《けわ》しい坂道を下りなければならなかったので、私たちは本通りの方から帰ることにした。で、その後者の道をとって、その突《つ》きあたりから本通りの方へ曲ろうとした途端《とたん》に、私は、その本通りの入口の、ちょうど宿屋の前あたりから、ぽうっと薄明《うすあか》るくなりだしている圏《わ》の中に、五六人、一かたまりになった人影《ひとかげ》がこちらを向いて歩いてくるのを認めた。私はどきっとして立ち止まった。どうやらそれが私の昔の女友達どもらしく見えたからだ。……私は急に、私のそばにいる彼女の腕をとって、向うから苦手の人が来るらしいので捕《つか》まると面倒《めんどう》くさいからと早口に言訣《いいわけ》しながら、いま来たばかりの水車場の方へ引っ返していった。そうして再びさっきの小川の縁《ふち》に並《なら》んで立ちながら、その人達がそのまま本通りの方から来るか、それとも宿屋の裏の坂を抜けてくるか、どっちから来るだろうと、両方の道へ注意を配っていた。……そしてそっちにばかり注意を奪《うば》われていたので、私たちは、私たちの背後の、いましがた其処から私たちの出てきたばかりの林の中から、数人のものが懐中電気《かいちゅうでんき》を照らしながら、出てくるのには全然気がつかずにいた。突然《とつぜん》私たちはその懐中電気のまぶしい光りを浴びせられた。私たちはびっくりしてその小川の縁を離《はな》れた。……しかし懐中電気を手にしていた男の方でも、そんなところに思いがけず私たちが突っ立っていたのに、面喰《めんくら》ったらしかったが、その一人が私だと気がつくと、
「××君じゃない?」と私の名前をためらいがちに言った。そう言われて、私が一層驚いて、まぶしそうに顔をしかめながら振《ふ》り向いて見ると、それは私の学生時代からの友人であった。それと同時に、私はその友人の背後に、若い女たちが二三人、まだ不審《ふしん》そうに闇《やみ》を透《す》かしながらこちらを見つめているのに気がついた。それはその友人の若い妻君や妹たちであった。私は彼女たちにちょいと会釈《えしゃく》をして、それから気まり悪そうに微笑しながら、
「なあんだ、君たちか! ――何時《いつ》、こっちへ来たの?」
「昨日来た。さっき君んところへ寄ったら留守だと言うんで、それから細木さんのところへ行って見たんだ。あそこの家もみんな出払《ではら》っているんだ……」
私はその友人の言葉を聞き終えるか終えないうちに、本通りの方の曲り角から一かたまりの人影がこっちへ曲って来だしたのを認めた。
「じゃあ、構わないから、僕《ぼく》んところへ寄って行けよ」
そう言い棄てて、私はさっさと一人で水車の道の方へ歩き出した。そうして私は二三のヴィラの前を通り過ぎてから、その先きの、真っ暗だけれど、私には勝手の知れた、草ぶかい坂道をずんずん一人先きに降りていった。やがて他《ほか》の連中も、そんな私の後から一塊《ひとかたま》りになって、一|箇《こ》の懐中電気を頼《たよ》りにしながら、きゃっきゃっと言って降りて来た。……
「まあ、こんな道あるの、私、ちっとも知らなかったわ」
坂の中途で、友人の若い妻君がそんなことを誰にともなく言ったらしいのが、もうその時はその小さな坂を降り切ってしまっていた私のところまで、手にとるように聞えて来た。私は丁度、その友人の妻君も確か数年前にその坂道で私の出会った少女たちの中に雑《まじ》っていたことを思い出すともなく思い出していたところだった。――その出会いは私にはあんなにも印象深いのに、嘗《か》つてのその少女たちの一人であった彼女《かのじょ》の方では、(恐《おそ》らく他の少女たちも同様に)そんな私との出会いのことなどは少しも気に留めていないで、すっかり忘れてしまっているのかなあと思った。が、一方ではまた何んだか、そんなことを言って彼女が私をからかっているのじゃないかしら、とそんな気もされた。ひょいと彼女の口を衝《つ》いて出たらしいそんな言葉を私はひとりで気にしながら、いつまでもそっぽを向いて皆の降りてくるのを待っていると、突然、そのうちの誰かが足を滑《すべ》らして、「あっ!」と小さく叫《さけ》んで、坂の中途にどさりと倒《たお》れたらしい気配がした。見上げると、その坂の中途にまだ転《ころ》がっているらしいものがまるで花ざかりの灌木《かんぼく》のように見えた。そして他のものがみんな立ち止まって、その一番最後に降りてきた少女の方をふり返っているのを、私はただぽかんとして眺《なが》めながら、その場を一歩も動こうとしないで突っ立っていた。そうして私は毎朝のようにこの坂を昇《のぼ》り降りしているあの跛《ちんば》の花売りのことをひょっくり思い浮べ、あいつはまた何だってこんなあぶなっかしい坂道をわざわざ選んで通るのだろうかしらと、全然いまの場合とは何んの関係もないようなことを考え出していた。……
底本:「風立ちぬ・美しい村」新潮文庫、新潮社
1951(昭和26)年1月25日発行
1987(昭和62)年5月20日89刷改版
1987(昭和62)年9月10日90刷
初出:「美しい村」は「序曲」「美しい村」「夏」「暗い道」の四篇より成る。
序曲:「大阪朝日新聞」(「山からの手紙」の表題で。)
1933(昭和8)年6月25日
美しい村:「改造」
1933(昭和8)年10月号
夏:「文藝春秋」
1933(昭和8)年10月号
暗い道:「週刊朝日」第25巻第13号
1934(昭和9)年3月18日号
初収単行本:「美しい村」野田書房
1934(昭和9)年4月20日
※初出情報は、「堀辰雄全集第1巻」筑摩書房、1977(昭和52)年5月28日、解題による。
※アルファベットは底本では、すべて斜体で組まれています。
入力:kompass
校正:染川隆俊
2004年1月21日作成
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