あとでそれを思い出そうとしても思い出せないような変にむつかしい姿勢をしていることがあるものだが、私の行く手を塞《ふさ》いでいるその人も恐《おそ》らくそんな時の姿勢をしているのにちがいなかった。……気がついて見ると私のすぐ傍《かたわ》らにもあった野薔薇の木を、それが私の見たいと思っている野薔薇の木のほんのデッサンでしかないように見やりながら、私はそのままじっと佇《たたず》んでいた。――やっとその人影は身を起し、蝙蝠傘をちょっと持ちかえてから歩き出した。そうしてずんずん霧のなかに暈《ぼや》けて行った。
 私も歩き出しながら、やっとその野薔薇の小さな茂《しげ》みの前に達した。そうして今しがたその人のしていたような難《むつか》しい姿勢を真似《まね》ながら、その上に身を跼《こご》めてみた。そうすればその人の心の状態までが見透《みす》かされでもするかのように。その小さな茂みはまだ硬《かた》い小さな莟《つぼみ》を一ぱいにつけながら、何か私に訴《うった》えでもしたいような眼つきで私を見上げた。私は知らず識《し》らずの裡《うち》にそれらの莟を根気よく数えたり、そっと持ち上げてみたりしている自分自身に気がついた。ふとさっきの人のしていた異様な手つきがまざまざと蘇《よみがえ》った。そうしてその小さな茂みがマイ・ミクスチュアらしい香《かお》りを漂《ただよ》わせているのに気がついたのもそれと殆《ほと》んど同時だった。湿《しめ》った空気のために何時《いつ》までもそのこんがらかった枝にからみついて消えずにいるその香りは、まるでその小さな茂みそのものから発せられているかのように思われた。
――私はいつもパイプを口から離《はな》したことのないレエノルズさんのことを思い出した。そして今の人影はその老医師にちがいないと思った。そう言えば、さっきから向うの方に霧のために見えたり隠《かく》れたりしている赤茶けたものは、そのサナトリウムの建物らしかった。
 私は再び霧のなかの道を、神々《こうごう》しいような薄光りに包まれながら、いくら歩いてもちっとも自分の体が進まないようなもどかしさを感じながら、あてもなく歩き続ていた。私の心はさっき霧の中から私を訴えるような眼つきで見上げた野薔薇のことで一杯《いっぱい》になっていた。私はそれらの白い小さな花を私の詩のためにさんざん使って置きながら、今日までその本物をろくすっぽ見もしなかったけれど、今度こそ、私もそれらの花に対して私のありったけの誠実を示すことの出来る機会の来つつあることを心から喜んでいた。そしてそのための私の歓《よろこ》ばしさと言ったら、昔《むかし》の詩人等が野薔薇のために歌った詩句を、口ずさむなんと言うのではなく、それを知っているだけ残らず大きな声で呶鳴《どな》り散らしたいような衝動《しょうどう》にまで、私を駈《か》り立てるのであった。

     ※[#アステリズム、1−12−94]

 私の書こうとしていた小説の主題は、漸《ようや》くその日その日を楽しむことが出来るようになったこんな田舎暮《いなかぐら》しの中では、いよいよ無意味なものに思われて来た。それに、そんなものを書くことは、自分で自分を一層どうしようもない破目《はめ》に陥《おと》し入れるようなものであることにも気がついたのだ。「アドルフ」の例が考えられた。ああいうものにまで私は自分の小さな出来事を引き揚《あ》げたかったのだ。弱気でしかも自我《じが》の強いために自分自身も不幸になり、他人をも不幸にさせたところのアドルフの運命は又《また》、私の運命さながらに思えたからだ。しかし、「アドルフ」の作者ほど、そういう弱々しい性格(恐らくそれは彼自身のであろうけれど)に対するはげしい憎悪《ぞうお》も持っていない、むしろそういう自分自身を甘《あま》やかすことしか出来そうもない私がそんな小説の真似なんかしようものなら、それによって更《さら》にもう一層自分自身をも、又他人をも不幸にするばかりであることが、わかり過ぎるくらい私にはわかって来たのだ。……こういうような考え方は、私の暗い半身にはすこし気に入らないようだったけれども、この頃のこんな田舎暮しのお蔭《かげ》で、そう言った私の暗い半身は、もう一方の私の明るい半身に徐々《じょじょ》に打負かされて行きつつあったのだ。
 そうして今の私がそれならば書いてもみたいと思うものは、たとえどんなに平凡《へいぼん》なものでもいいから、これから私の暮らそうとしているようなこんな季節はずれの田舎の、人っ子ひとりいない、しかし花だらけの額縁《がくぶち》の中へすっぽりと嵌《は》まり込むような、古い絵のような物語であった。私は何とかしてそんな言わば牧歌的なもの[#「牧歌的なもの」に傍点]が書きたかった。私はこれまでも他人の書いたそういう作品を随分
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