《きふだ》がぶらさげられた。そしていまや、その横町の両側の花畑には、向日葵《ひまわり》だの、ダリヤだの、その他さまざまの珍らしい花が真っさかりであった。……
 私はそんな二軒の花屋の物語を彼女に聞かせながら、その私の大好きな横町へ、彼女の注意を向けさせた。
 水車の道の上へ大きな枝を拡《ひろ》げている、一本の古い桜《さくら》の木の根元から、その道から一段低くなっている花畑の向うに、店の名前を羅馬字《ロオマじ》で真白にくり抜いた、空色の看板が、さまざまな紅だの黄だのの花とすれすれの高さに、しかしそれだけくっきりと浮《う》いて見えている。――そんな角度から見た一|軒《けん》の花屋の屋根とその花畑を、彼女は或る日から五十号のカンバスに描《えが》き出した……。
 しかしその水車の道はそのへんの別荘の人たちが割合に往《ゆ》き来するので、彼女のまわりにはすぐ人だかりがして困るらしかったが、私は一|遍《ぺん》もその絵を描いている場所へ近づこうとはしないでいた。そんな人目につき易《やす》い場所で私が彼女と親しそうにしているのを、私の顔見知りの人々に見られたくなかったからだ。で、私は自分の部屋に閉《と》じこもったきりで、この頃やっと書き上げたばかりの原稿へ最後の手入れをし続けていた。(しかし、その間一番余計に私の考えていたのは、やっぱり彼女のことであった。)――が、私はその花屋を描いているところを遠くからなりと、一度見て置きたいと思って、或る朝、宿屋の裏の坂を上りながら水車の道まで出ていって見た。そうして私は、その道の向うの、大きな桜の木の下に立って、パレットを動かしている彼女と、それから彼女の横からその画布を覗《のぞ》き込《こ》みながら、一人のベレ帽《ぼう》をかぶった若い男が、何やら彼女に話しかけているのを認めた。私はそんな男が早く彼女のそばを立ち去ってくれればいいにと、すこしやきもきしながら、待っていた。――
「誰れ? いまの人……」やっとその男が立ち去ったのを見ると、私は急いで彼女の方へ近づいて行きながら、いかにも何気《なにげ》なさそうに訊《き》いた。
「画家《えかき》さんなんですって……何んだか、あんまり何時《いつ》までも見ていらっしゃるんで、私、厭《いや》になっちゃった……」
 彼女はわざとらしく顔をしかめて見せた。それからすこし恐《こわ》いような眼つきをして花畑の一部を見
前へ 次へ
全50ページ中40ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
堀 辰雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング