「そうすると、それを知っているのはお前だけだがなあ……」と私は、いま私の下方に横《よこた》わっている高原一帯を隔《へだ》てて、私と向い合っている、遥《はる》か彼方《かなた》の「巨人の椅子」を、あたかもそのあたりに見えない巨人の姿を探してでもいるかのような眼つきで、まじまじと見まもっていた。
 だんだんに日が暮《く》れだした。私のすぐ足許《あしもと》の、いつかその赤い屋根に交尾《こうび》している小鳥たちを見出したヴィラは、もう人が住まっているらしく、窓がすっかり開け放たれて、橙色《だいだいいろ》のカアテンの揺《ゆ》らいでいるのが見えた。ときおり御用聞きがその家のところまで自転車を重そうに押《お》し上げてくるらしい音が私のところまで聞えて来た。もうそろそろ私もこれまでのようにこの空家の庭でぼんやりしていられそうもないなと思った。そんな気がしだすと、何んだかもうこれがその最後の時ででもあるかのように、私は、私のすべての注意を、半分はこの荒廃《こうはい》したヴィラそのものに、半分はこの高みから見下ろせる一帯の美しい村、その森、その花|咲《さ》ける野、その別荘《べっそう》、それからもう霞《かす》みながらよく見えなくなり出した丘々《おかおか》の襞《ひだ》、それだけがまだ黒々と残っている「巨人の椅子」などに傾《かたむ》け出していた。それにも拘《かか》わらず、私はときどきややもするとそれ等《ら》のものことごとくを見失い、そしてまるっきり放心状態になっている自分自身に気がついて、思わずどきっとするのだった。
 突然《とつぜん》、ちょうど私の頭上にある、その周囲だけもうすっかり薄暗《うすぐら》くなっている大きな樅《もみ》の、ほとんど水平に伸《の》びた枝《えだ》の一つに、ばたばたとびっくりするような羽音をさせながら、一羽の山鳩《やまばと》が飛んできて止まった。そうしてそんなところに私のいることに向うでも愕《おどろ》いたように、再びすぐその枝から、薄暗いために一層大きく見えながら、それは飛び去って行った。あたかも私自身の思惟《イデエ》そのものであるかのごとく重々しく羽搏《はばた》きながら、そしてその翼《つばさ》を無気味に青く光らせながら……。
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   夏

 突然、私の窓の面している中庭の、とっくにもう花を失っている躑躅《つつじ》の茂《しげ》みの向うの、別館《べっかん》の窓
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