という名前だったのを私は今でも覚えている。が、もう一方のは忘れた。そうしてその老嬢たちそのものも、その一方だけは、あの銀色の毛髪《もうはつ》をして、何となく子供子供した顔をしていた方だけは、今でも私の眼にはっきりと浮《うか》んでくるけれど、もう一方のはどうしても思い出せない。昔から自分の気に入った型《タイプ》の人物にしか関心しようとしない自分の習癖《しゅうへき》が、(この頃ではどうもそれが自分の作家としての大きな才能の欠陥《けっかん》のように思われてならないのだけれど、)この老嬢たちにも知《し》らず識《し》らずの裡《うち》に働いていたものと見える。
 ……この数年間というもの、この高原、この私の少年時の幸福な思い出と言えばその殆んど全部が此処《ここ》に結びつけられているような高原から、私を引き離していた私の孤独《こどく》な病院生活、その間に起ったさまざまな出来事、忘れがたい人々との心にもない別離《べつり》、その間の私の完全な無為《むい》。……そして、その長い間|放擲《ほうてき》していた私の仕事を再び取り上げるために、一人きりにはなりたいし、そうかと言ってあんまり知らない田舎《いなか》へなぞ行ったら淋しくてしようがあるまいからと言った、例の私の不決断な性分《しょうぶん》から、この土地ならそのすべてのものが私にさまざまな思い出を語ってくれるだろうし、そして今時分ならまだ誰にも知った人には会わないだろうしと思って、こんな季節はずれの六月の月を選んで、この高原へわざわざ私はやって来たのであった。が、数日前にこの土地へ到着してから私の見聞きする、あたかも私のそういう長い不在を具象《ぐしょう》するような、この高原に於《お》けるさまざまな思いがけない変化、それにつけても今更《いまさら》のように蘇って来る、この土地ではじめて知り合いになった或る女友達との最近の悲しい別離。……
 そんな物思いに耽《ふけ》りながら、私はぼんやり煙草《たばこ》を吹かしたまま、ほとんど私の真正面の丘の上に聳《そび》えている、西洋人が「巨人《きょじん》の椅子《いす》」という綽名《あだな》をつけているところの大きな岩、それだけがあらゆる風化作用から逃《のが》れて昔からそっくりそのままに残っているかに見える、どっしりと落着いた岩を、いつまでも見まもっていた。
 私はやがて再び枯葉《かれは》をガサガサと音させなが
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