いながら云った。
「女性は女性にちがいないが……あれは旦那様なのかも知れない。……」私はそんな蔭口をいいながら、おもわずその娘とばったり目を合わせた。私よりも先きに、娘の方ですぐ目をそらせた。
私は煙草をふかし出しながら、二人でゆっくり珈琲を飲んでいると、帳場のかげからレコオドが聞えてきた。「アヴェ・マリア!……」向うの卓で薔薇色《ばらいろ》の娘がそう甘えるような声を出した。ポロシャツの方はセロリを口に入れながら、黙ってうなずいていた。曲が静かに終っても、いつまでも空まわりをやっていた。それに気がついて、台所から皿洗いらしいものの姿が帳場の奥へちらり見えて、他のと掛け換えた。そのとき初めて気がついたが、どうやらこのホテルでは、マネエジャアから料理番、皿洗いまで一人でやっていると見える。こんどの曲はワルツか何からしかった。
夜、いつまでもなんだか口の中に残っているセロリの匂を気にしながら、すこし自分達の部屋で本を読んでいたが、どうも部屋が小さいせいか蒸し蒸しするので、窓を明け放しておいて二人ともヴェランダへ出て往った。
その隣りの、湖に面した部屋のあかりが急に消されたようだった。そ
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