けながら、私の手を出しかねていたバウム・クウヘンを指して、「これは鼠《ねずみ》が噛《かじ》ったのですか?」などと常談さえ云う。「そうかも知れませんね。……それでもよろしかったら、先生に私から進物にしますわ。」雀斑《そばかす》のある若い娘も笑いながら、そんな返事をしている。「実は持て余していたところなんでしょう?」と老外人の見事な応酬。――そんな和気靄々《わきあいあい》たる常談の云いあいをあとに、私はビスケットだけ包んで貰って、さっさと店を出て来た。そして町を引っ返して往きながら、ふいといま頃は森のなかの小屋で風呂の火でも焚《た》きつけているだろう妻の姿を浮べた。なんだか急に淋しくなった。このまま二三日何処かへちょっと旅行に出て、それから戻って来たら又こんな気もちも落着くだろうと思いながら、丁度店の主人が一人で横浜へ引き上げるため最後の荷作りをしている或る運道具店の前を通りすがりに、ひょいとズックの手提鞄《てさげかばん》のようなものを目に入れて、ずかずかと入っていって、突嗟《とっさ》に旅行の決心をして、それを買い求めた。それはラケットの入るようになった鞄だった。なんでもいいから、失くした
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