しそう云うだけで、妻を起しもしないでさっさと着換えをしだした。そうしてなんという事はなしに、きょうはこりあ好い日になるぞと一人で極めて、階下に往って顔を洗って来ると、例の小さな本を持ってヴェランダに出た。が、さて、こうやって待ち構えたような気分でいると、別に好い事なんぞは何処からも涌《わ》いて来そうもない。第一、けさは朝霧が下りていると云うのでもなしに、変にうす曇っていて、空も湖水も一めんに鈍色《にびいろ》だ。妙高にも、黒姫にも雲が無くて、輪廓《りんかく》だけがぼおっとぼやけて見えている。なんだかこのままこうして一日中曇ってしまいそうな、そんな心細い曇り方だ。
曇ったら曇ったで、余所《よそ》へいってもしようがあるまいから、晴れるまで此処に頑張って、静に本でも読んで暮らすのも好い。それが一番おれらしい。何、この本を読みにわざわざこの湖畔まで出掛けて来たとおもったって好いわけだ。
私はそう腹を据えると、妻はそのままゆっくり寝かせておく事にして、ヴェランダの籐椅子《とういす》に靠《もた》れながら、曇り空の下で、例の小さな横文字の本を開いた。それはドロステ・ヒュルスホオフという独逸《ドイツ》の閨秀作家《けいしゅうさっか》の書いた「猶太《ユダヤ》びとの※[#「木+無」、第3水準1−86−12]《ぶな》」という物語だった。南独逸の木深い谷を背景にして、酔払いの夫が或る吹雪の晩に森のなかで横死してからの、その寡婦と息子との荒《すさ》んでゆく運命を、女にも似げない、強靭《きょうじん》な筆で書いたものだった。丁度、私はその息子のフリイドリッヒが彼を養子にした叔父のシモンの悪い感化の下で次第に村のならず者になってゆく宿命的な経路を描いた物語の半ばを読みかけていた。――或日、森のなかでちょっとした事から彼が口論した一人の山林監視人がすぐそのあとで何者かに殺される。先ず嫌疑はフリイドリッヒにかかる。が、彼のアリバイが認められ、事件はそのまま迷宮に入ろうとする。次ぎの日曜の明け方、教会に往こうとして月あかりのなかに台所で祈祷書《きとうしょ》を捜していたフリイドリッヒは、戸口で寝巻姿の儘《まま》の叔父のシモンに呼びとめられる。二三の押し問答の末、フリイドリッヒは例の殺人犯人は実はその叔父であるのを知る。その儘、彼は教会へも往かずにしまう。……
そのとき漸っと起きてきた妻は、まだ眠そうに、黙ったまま私の横の籐椅子に腰を下ろした。私はそれを承知で、しかし本からは目を放さずに、その頁を読《よ》み了《お》えてしまうまでじっとしていた。それから漸っと妻の方へほっとしたような顔を上げた。
「話してもいい?」妻は私の方を見た。
「きょうは御勉強、それとも何処かへお出掛けなさるの? なんだかはっきりしないお天気だけれど……」
「出掛けて、途中で雨にでも逢ったらつまらないから、此処でこうして本でも読んでいたいなあ……」
「それもいいわね。」
妻もいつかそんな気になっているらしかった。もうそういう気まぐれな私には慣れっこになっているので、そっとして置くよりしようがないと観念しているのかも知れなかったが……。そうと決まると、妻は落着いて髪を結いに部屋へ引っ込んだが、暫くするとこんどは自分も本を持って出てきた。そして私と並んで本を読み出した。
ときどき小鳥が、そんな私達の頭とすれすれのところを、幽《かす》かな羽音をさせながら、よろめくように翔《と》んで過《よ》ぎった。
例の娘達の部屋はまだひっそりと窓掛けを下ろしたまま、何んの物音もしないでいた。そのうち漸っと目をさましたと見え、何か二人でぼそぼそと話し出しているようだ。それを好い機会に、私達は朝の食堂に下りて往った。
*
まだその娘達が姿を見せないうちに、朝の食堂を出て来た私達は、部屋へは帰らずに、そのままぶらっと散歩に出た。ともかくも雨の降り出さないうちに、まあ出来るだけでもその辺を見ておこうと思って、外人部落のきのう往かなかった方へ道をとった。湖岸まで下りて見ると、対岸の斑尾の方はなんとなく薄明るくて、青磁色の空さえところどころ覗いている。こりあうまく往くと、ときどき薄日ぐらいは差すような天気になって呉れるかも知れない。
湖に沿った道をその部落のはずれまで往き切って、其処からこんどは落葉に埋まった急な坂を部落の方へ引っ返して往った。又、きのうと同様、すぐ面白いように人の家のなかへ踏み込んでしまう。ヴェランダ、鎧扉《よろいど》、木の段段、――どれもきのう見た奴と殆ど変りはない。なんだかきのうと同じ処を歩いているような感じだったが、ひょいと或る一軒の大きな別荘のなかへ迷い込んで、又引っ返そうとして、ふいと、その裏手の方を見ると、その裏木戸の上から白樺の木蔭になって「Green ……」という下手な横文
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