晩夏
堀辰雄

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)木目菓子《バウム・クウヘン》の

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)いわば|差し向いの淋しさ《ツワイザアムカイト》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「木+無」、第3水準1−86−12]
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 けさ急に思い立って、軽井沢の山小屋を閉めて、野尻湖に来た。
 実は――きのうひさしぶりで町へ下りて菓子でも買って帰ろうとしたら、何処の店ももう大概引き上げたあとで、漸《や》っと町はずれのアメリカン・ベエカリイだけがまだ店を開いていたので、飛び込んだら、欲しいようなものは殆ど何も無かった、木目菓子《バウム・クウヘン》の根っこのところだけ、それも半欠けになって残っていたが、いくら好きでも、これにはちょっと手を出し兼ねていた。そこへよく見かける一人の老外人がはいって来た。この店のお得意だと見え、「おやおや、お菓子、もうなんにも無いですね……」と割に流暢《りゅうちょう》な日本語で店の売子に言葉を掛けながら、私の手を出しかねていたバウム・クウヘンを指して、「これは鼠《ねずみ》が噛《かじ》ったのですか?」などと常談さえ云う。「そうかも知れませんね。……それでもよろしかったら、先生に私から進物にしますわ。」雀斑《そばかす》のある若い娘も笑いながら、そんな返事をしている。「実は持て余していたところなんでしょう?」と老外人の見事な応酬。――そんな和気靄々《わきあいあい》たる常談の云いあいをあとに、私はビスケットだけ包んで貰って、さっさと店を出て来た。そして町を引っ返して往きながら、ふいといま頃は森のなかの小屋で風呂の火でも焚《た》きつけているだろう妻の姿を浮べた。なんだか急に淋しくなった。このまま二三日何処かへちょっと旅行に出て、それから戻って来たら又こんな気もちも落着くだろうと思いながら、丁度店の主人が一人で横浜へ引き上げるため最後の荷作りをしている或る運道具店の前を通りすがりに、ひょいとズックの手提鞄《てさげかばん》のようなものを目に入れて、ずかずかと入っていって、突嗟《とっさ》に旅行の決心をして、それを買い求めた。それはラケットの入るようになった鞄だった。なんでもいいから、失くした
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