、出発した。

 秋になってから、その青年が突然、私に長い手紙をよこした。私はその手紙を読みながら、膨《ふく》れっ面《つら》をした。その手紙の終りの方には、お前が出発するとき、俥《くるま》の上から、彼の方を見つめながら、今にも泣き出しそうな顔をしたことが、まるで田園小説のエピロオグのように書かれてあったから。しかし、私はその小説の感傷的な主人公たちをこっそり羨《うらやま》しがった。だが、何んだって彼は私になんかお前への恋を打明けたんだろう? それともそれは私への挑戦状のつもりだったのかしら? そうとすれば、その手紙は確かに効果的だった。
 その手紙が私に最後の打撃を与えた。私は苦しがった。が、その苦しみが私をたまらなく魅したほど、その時分はまだ私も子供だった。私は好んでお前を諦《あきら》めた。
 私はその時分から、空腹者のようにがつがつと、詩や小説を読み出した。私はあらゆるスポオツから遠ざかった。私は見ちがえるようにメランコリックな少年になった。私の母が漸《ようや》くそれを心配しだした。彼女は私の心の中をそれとなく捜《さぐ》る。そしてそこに二人の少女の影響を見つける。が、ああ、母の来るのは何時もあんまり遅すぎる!
 私は或る日、突然、私のはいることになっている医科を止めて、文科にはいりたいことを母に訴えた。母はそれを聞きながら、ただ、呆気《あっけ》にとられていた。

 それがその秋の最後の日かと思われるような、或る日のことだった。私は或る友人と学校の裏の細い坂道を上って行った、その時、私は坂の上から、秋の日を浴びながら、二人づれの女学生が下りてくるのを認めた。私たちは空気のようにすれちがった。その一人はどうもお前らしかった。すれちがいざま、私はふとその少女の無雑作に編んだ髪に目をやった。それが秋の日にかすかに匂《にお》った。私はそのかすかな日の匂いに、いつかの麦藁帽子の匂いを思い出した。私はひどく息をはずませた。
「どうしたんだい?」
「何、ちょっと知っている人のような気がしたものだから……しかし、矢張り、ちがっていた」

        ※[#アステリズム、1−12−94]

 次ぎの夏休みには、私は、そのすこし前から知合になった、一人の有名な詩人に連れられて、或る高原へ行った。
 その高原へ夏ごとに集まってくる避暑客の大部分は、外国人か、上流社会の人達ばかりだった。ホテルのテラスにはいつも外国人たちが英字新聞を読んだり、チェスをしていた。落葉松《からまつ》の林の中を歩いていると、突然背後から馬の足音がしたりした。テニスコオトの附近は、毎日|賑《にぎ》やかで、まるで戸外舞踏会が催されているようだった。そのすぐ裏の教会からはピアノの音が絶えず聞えて……
 毎年の夏をその高原で暮らすその詩人は、そこで多くの少女たちとも知合らしかった。私はその詩人に通りすがりにお時宜《じぎ》をしてゆく、幾たりかの少女のうちの一人が、いつか私の恋人になるであろうことを、ひそかに夢みた。そしてその夢を実現させるためには、私も早く有名な詩人になるより他《ほか》はないと思ったりした。
 或る日のことだった。私はいつものようにその詩人と並んで、その町の|本通り《メエン・ストリイト》を散歩していた。そのとき向うから、或いはラケットを持ったり、或いは自転車を両手で押しながら、半ダアスばかりの少女たちががやがや話しながら、私たちの方へやってくるのに出会った。それらの少女たちはちょっと立ち止まって、私たちのために道を開《あ》けてくれながら、そうしてそのうちの幾たりかは私と一緒にいる詩人にお時宜をした。彼は何か彼女たちとしばらく立ち話をしていた。……私はその時はもう、われにもなく其処《そこ》から数歩離れたところにまで行っていた。そうしてそこに立ち止まったまま、今にもその詩人が私の名を呼んで、その少女たちに紹介してくれやしないかという期待に胸をはずませながら、しかし何食わぬ顔をして、鶏肉屋の店先きに飼われている七面鳥を見つめていた……
 しかし少女たちは私の方なんぞは振り向きもしないで、再びがやがやと話しながら、その詩人から離れて行った。私も出来るだけその方から、そっぽを向いていた。
 それからまた、私はその詩人と並んで歩き出しながら、いま会ったばかりの少女たちの名前を、それからそれへと、熱心に、しかし、何気なさそうに、聞いていた。今まで私によそよそしかった野生の花が、その名前を私が知っただけで、急に向うから私に懐《なづ》いてくるように、その少女たちも、その名前を私が知りさえすれば、向うから進んで、私に近づいて来たがりでもするかのように。

 そんなことのうちに三週間ばかり滞在した後、私は一人だけ先きに、その高原を立ち去った。
 私が家に帰ると、私の母ははじめて彼女の
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