私たちの田舎ずまいは、一銭銅貨の表と裏とのように、いろんな家畜小屋と脊中《せなか》合わせだった。ときどき家畜らが交尾をした。そのための悲鳴が私たちのところまで聞えてきた。裏木戸を出ると、そこに小さな牧場があった。いつも牛の夫婦が草をたべていた。夕方になると、彼等は何処《どこ》へともなく姿を消す。そのあとで、私たちはいつもキャッチボオルをした。するとお前は、或る時はお前の姉と、或る時はお前の小さな弟と、其処まで遊びに出てきた。いつだったかのように、遠くで花を摘んだり、お前の習ったばかりの讃美歌《さんびか》を唱《うた》ったりしながら。ときどきお前がつかえると、お前の姉が小声でそれを続けてやった。――まだ八つにしかならない、お前の小さな弟は、始終お前のそばに附きっきりだった。彼は私たちの仲間入りをするには、あんまり小さ過ぎた。そんな小さな弟に毎日一ぺんずつ接吻《せっぷん》をしてやるのが、お前の日課の一つだった。「今日はまだ一ぺんもしてあげなかったのね……」そう云って、お前はその小さな弟を引きよせて、私たちのいる前で、平気で彼と接吻をする。
私はいつまでも投球のモオションを続けながら、それを横目で見ている。
その牧場のむこうは麦畑だった。その麦畑と麦畑の間を、小さな川が流れていた。よくそこへ釣りをしに行った。お前は私たちの後から、黐竿《もちざお》を肩にかついだ小さな弟と一しょに、魚籠《びく》をぶらさげて、ついてきた。私は蚯蚓《みみず》がこわいので、お前の兄たちにそれを釣針につけて貰《もら》った。しかし私はすぐそれを食われてしまう。すると、しまいには彼等はそれを面倒くさがって、そばで見ているお前に、その役を押しつける。お前は私みたいに蚯蚓をこわがらないので。お前はそれを私の釣針につけてくれるために、私の方へ身をかがめる。お前はよそゆきの、赤いさくらんぼの飾りのついた、麦藁《むぎわら》帽子をかぶっている。そのしなやかな帽子の縁《へり》が、私の頬《ほお》をそっと撫《な》でる。私はお前に気どられぬように深い呼吸をする。しかしお前はなんの匂いもしない。ただ麦藁帽子の、かすかに焦げる匂いがするきりで。……私は物足りなくて、なんだかお前にだまかされているような気さえする。
まだあんまり開けていない、そのT村には、避暑客らしいものは、私たちの他には、一組もない位だった。私たちは
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