。私は厠《かわや》にはいっていた。その小さな窓からは、井戸端《いどばた》の光景がまる見えになった。誰かが顔を洗いにきた。私が何気なくその窓から覗《のぞ》いていると、青年が悪い顔色をして歯を磨《みが》いていた。彼の口のまわりには血がすこし滲《にじ》んでいた。彼はそれに気がつかないらしかった。私もそれが歯茎から出たものとばかり思っていた。突然、彼がむせびながら、俯向《うつむ》きになった。そしてその流し場に、一塊《ひとかたま》りの血を吐いていた……

 その日の午後、誰にもそのことを知らせずに、私は突然T村を立ち去った。

     エピロオグ

 地震! それは愛の秩序まで引っくり返すものと見える。
 私は寄宿舎から、帽子もかぶらずに、草履《ぞうり》のまんま、私の家へ駈《か》けつけた。私の家はもう焼けていた。私は私の両親の行方《ゆくえ》を知りようがなかった。ことによると其処《そこ》に立退《たちの》いているかも知れないと思って、父方の親類のある郊外のY村を指《さ》して、避難者の群れにまじりながら、私はいつか裸足《はだし》になって、歩いて行った。
 私はその避難者の群れの中に、はからずもお前たちの一家のものを見出《みいだ》した。私たちは昂奮《こうふん》して、痛いほど肩を叩《たた》きあった。お前たちはすっかり歩き疲れていた。私はすぐ近くのY村まで行けば、一晩位はどうにかなるだろうと云って、お前たちを無理に引張って行った。
 Y村では、野原のまん中に、大きな天幕が張られていた。焚火《たきび》がたかれていた。そうして夜更《よふ》けから、炊《た》き出しがはじまった。その時分になっても、私の両親はそこへ姿を見せなかった。しかし私は、そんな周囲の生き生きとした光景のおかげで、まるでお前たちとキャンプ生活でもしているかのように、ひとりでに心が浮き立った。
 私はお前たちと、その天幕の片隅《かたすみ》に、一塊りに重なり合いながら、横になった。寝返りを打つと、私の頭はかならず誰かの頭にぶつかった。そうして私たちは、いつまでも寝つかれなかった。ときおり、かなり大きな余震があった。そうかと思うと、誰かが急に笑い出したような泣き方をした。……すこしうとうとと眠ってから、ふと目をさますと、誰だか知らない、寝みだれた女の髪の毛が、私の頬《ほお》に触《さわ》っているのに気がついた。私はゆめうつつに、その
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