それで、まだ両親の許《もと》をはなれて、ひとりで旅行をするなんていう芸当も出来ない。だが、今度は、いままでとは事情がすこし違って、ひとつ上の学校に入ったので、この夏休みには、こんな休暇の宿題があったのだ。田舎へ行って一人の少女を見つけてくること。
その田舎へひとりでは行くことが出来ずに、私は都会のまん中で、一つの奇蹟《きせき》の起るのを待っていた。それは無駄《むだ》ではなかった。C県の或る海岸にひと夏を送りに行っていた、お前の兄のところから、思いがけない招待の手紙が届いたのだった。
おお、私のなつかしい幼友達よ! 私は私の思い出の中を手探りする。真っ白な運動服を着た、二人とも私よりすこし年上の、お前の兄たちの姿が、先《ま》ず浮ぶ。毎日のように、私は彼|等《ら》とベエスボオルの練習をした。或る日、私は田圃に落ちた。花環を手にしていたお前の傍《そば》で、私は裸かにさせられた。私は真っ赤になった。……やがて彼等は、二人とも地方の高等学校へ行ってしまった。もうかれこれ三四年になる。それからはあんまり彼等とも遊ぶ機会がなくなった。その間、私はお前とだけは、屡々《しばしば》、町の中ですれちがった。何にも口をきかないで、ただ顔を赧《あか》らめながら、お時宜《じぎ》をしあった。お前は女学校の制服をつけていた。すれちがいざま、お前の小さな靴の鳴るのを私は聞いた……
私はその海岸行を両親にせがんだ。そしてやっと一週間の逗留《とうりゅう》を許された。私は海水着やグロオブで一ぱいになったバスケットを重そうにぶらさげて、心臓をどきどきさせながら、出発した。
それはT……という名のごく小さな村だった。お前たちは或る農家の、ささやかな、いろいろな草花で縁《へり》をとられた離れを借りて、暮らしていた。私が到着したとき、お前たちは海岸に行っていた。あとにはお前の母と私のあまりよく知らないお前の姉とが、二人きりで、留守番をしていた。
私は海岸へ行く道順を教わると、すぐ裸足《はだし》になって、松林の中の、その小径《こみち》を飛んで行った。焼けた砂が、まるでパンの焦げるような好い匂《にお》いがした。
海岸には、光線がぎっしりと充填《つま》って、まぶしくって、何にも見えない位だった。そしてその光線の中へは、一種の妖精《ようせい》にでもならなければ、這入《はい》れないように見えた。私は盲のように
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