岳とが並んで聳《そび》え立っていた。
「高原というのは、こうやってそこへ出た時の最初の瞬間がなんとも云えず印象的でいいな。」僕はそういう目付をしてM君の方を見た。
やがて、野辺山駅に着いた。白い、小さな、瀟洒[#「瀟洒」に傍点]とした建物で――いや、もうそんなことはどうでもいいことにしよう。――それよりか、僕はその小さな駅に下りかけて、横書きの「野辺山」という三文字が目に飛びこんできた途端に、なにかおもわずはっとした。いままではさほどにも思っていなかった「野辺山」という土地の名がいかにも美しい。まあ何んという素樸《そぼく》な呼びかたで、いい味があるのだろう。そうして此処まで来て、その三文字をなにげなく口にするとき、はじめてそのいい味の分かるような、それほどこの土地の一部になりきってしまっている純粋な名なんだなとおもった。……
その高原の駅に下りたのは僕たちのほかには、二人づれの猟師が一組あるきり。――その猟師たちは駅員と一しょになって檻《おり》に入れられてきた猟犬をとり出しにかかっていた。
そこで僕たちは二人きりで駅のそとに出たが、其処はいちめんの泥濘だった。駅の附近には、一棟の舎宅らしいもののほか、二軒ばかり休み茶屋みたいなものがあったが、どちらも戸を閉ざしていた、――そんなところで一休みして、簡単に腹でもこしらえながら、それからどこをどう歩くか考えてみるつもりだった。そこへいってみれば、大体どうすればいいかがひとりでに分かってくるだろう位に、僕はいつもの流儀で高を括《くく》っていた。
だが、すぐ目のさきに赤岳だの横岳だのがけざやかに見えていながら、この泥濘の道ではどうしようもない。せっかくの野辺山が原もいい気もちになって歩きまわるわけにゆきそうもない。それに、もう午《ひる》近い。なんとか腹をこしらえないことには。……
「あそこに何か為事《しごと》をしている人たちが見えるな。あの人たちに訊いたら、すこしはこのへんの様子が分かるかもしれない。」
僕はM君にそう言い、ひどい泥濘の中にはいり込まないように、道のへりのほうを歩きながら、旧街道らしいものの傍らで、二人の法被《はっぴ》すがたの男がせっせと為事をしている方へ近づいていった。
が、だんだんそっちへ近づいていって見ると、その男たちが何か荒ら荒らしい手つきで皮を剥《む》いているのは兎であるのが分かってきた。そうしてまだ生ま生ましいような皮がいくつももう板に拡げて張りつけられてあるのが見え、皮を剥《は》がされた肉の塊りが道ばたまでころがり出していた。
「こいつはかなわないや。一番の苦が手だ。もう一ぺん駅までひっかえして、訊《き》いてみよう。」
僕はさっさとそっちへ背を向けて、もう泥濘の中だろうとなんだろうと構わずに、その街道を突っ切りだした。そのときひょいと目を上げると、ちょうど鼻のさきに小さな道標が立っている。それでみると右が板橋、左が三軒屋。両方とも約二|粁《キロ》位。――そうそう、板橋という部落はなんだか聞いたことがある。たしか、そこにはわびしい旅籠屋《はたごや》なんぞもあったはずだ。二粁ぐらいなら、思い切って往ってみようかと、M君と相談していると、――その板橋のほうへ通じている、片方は林で、もう一方は草原になった、真直な街道を、何処からどう抜け出したのか、さっきちらりと駅で見かけた猟師が二人、大きな猟犬を先立てながら、さっさと歩いてゆくのが見える。
「往こう。」と僕は言った。
「ええ。」M君もそれにすぐ応じた。
僕たちはその猟師たちのあとを追うようにしてその街道を歩き出した。どこもかもひどい泥濘だが、道のへりなどにはまだすこし雪が残っている。そんな雪のうえを択んで歩き歩き、ときどき片側の枯木林を透かしながら赤岳だの横岳だのをちかぢかと目に入れたり、もう一方の、まだかなり雪が残っていそうな、果てしなく広い草原のはるかかなたを、甲武信《こぶし》の国境の薄白い山々が劃《くぎ》っているのを眺めたりしていると、なかなか好いことは好い。日光もほどよく温かで、こうして歩いているとすこし汗ばんでくる位。――だが、ものの十分とたたないうちに、僕たちの前方を歩いていた猟師たちは、急に林の中へでもはいってしまったのか、もう影も形も見えない。そのかわりに、いつのまにか、僕たちの背後には重そうな鞄《かばん》を背負った郵便配達夫がひとり姿をあらわし、黙々として泥濘のなかを歩きつづけながら、傍目もふらずに僕たちを追い越そうとしているのだった。――僕たちも何かそれにつりこまれたように、ふたりとも急に黙り合って、ぼんやりと立ち止まったまま、その郵便配達夫の通り過ぎるのを見送っていた。
僕たちはとうとう二人きりになってしまうと、別にいそぐ旅でもないので、雪のまだかなりありそうな草原のほうへちょいとはいっていって見た。雪は、しかし、其拠にもそうたんと残ってはいない。ただ遠くから見た目に何んとなくそう見えるだけのものらしい。が、そんな少しばかり雪の残った草原のまんなかに立って見ると、あちこちに一本ずつ離れ離れに立っている樺《かば》の木なんぞが、その変に枝をねじらせている工合までも、何かなつかしく思われてくる。
「こういう高原の木は、どこか孤独の相のようなものを帯びているね。」僕はふとM君にそう言ってみたが、それだけではまだなんだか言い足りないような気がした。
それから僕たちはその儘《まま》、その草原の雪のうえを歩いてみていたが、なかなか道がはかどらない。そこで、またさっきの街道のほうへ出ることにした。
みると、こんどはその街道をやはり板橋のほうへ向かって、一匹の牝山羊をつれた女が、こう、すこし首をうなだれるようにして歩いてゆく。まだ若い女らしい。
冬の真昼、ときどきまぶしく光つている雪原、風のために枝のねじれた樹木、それらのすべてを取り囲んでいる雪の山々、――そういう自然の中からひとりでに生れてきたようなその羊飼いの女。……
「まるでセガンティニの女みたいだね。」僕はおもわず小さく叫んだ。「あの首のうなだれ方までそっくりだな。」
「セガンティニは僕はあの倉敷の美術館にあるのしか知らないな。」
M君は僕の言葉をそのまま受けいれるにはすこし自信がなさそうだ。
「そりあ知らないといえば、僕だってなんにも知らないようなものだがね、ただまあひょいとそんな聯想《れんそう》がうかんだんだ。」僕の方でもそんな云いわけをした。「そういえば、あそこにもアルプスの絵かなんかあったね。あれはどんな絵だったかな?」
「たしか真昼の牧場の絵で、アルプスが遠く見え、前のほうに羊飼いの女の立っているような構図だったとおもいますが。……」
「ああ、それで思い出した。なんだかこう妙にねじくれた白樺の木にその女がもたれているんだろう。……」僕はそこの美術館ではエル・グレコの絵しか見て来なかったような気がしていたが、セガンティニのような特異な絵はやはり注意して見ていたものと見える。さっき草原に立った木をなつかしそうに見ながら、何かいまにも思い出せそうでまだ思い出せずにいるものが、その殆ど忘れかけていたセガンティニの絵に描かれた白樺の木とも何か関係のありそうなことをふいと感じた。だが、それはまだ僕のうちでもはっきりとしていない。……
僕たちはその牝山羊をつれた若い女に追いつこうとして、いそいで泥濘の街道に出て、再び道ばたの雪を拾いながら歩きはじめた。が、そんなことをして漸《よ》うやっと歩いている僕たちは、泥濘のなかをも平気で歩いてゆくその牝山羊をつれた女にもずんずん引き離されてしまった。そうしていつのまにか、また僕たち二人きりにされてしまった。
そんな調子でいくら歩いていっても、野辺山が原は尽きそうもない。もうかれこれ一時間ぐらいは歩いているだろう。腹もへってきているし、もうおしゃべりをする元気もなく、二人とも泥だらけになった靴をただ重そうに運んでいるきりになった。――そうして僕はもう口には出さずに、昔小さな本で読んだことのあるセガンティニの美しい生涯などを考えつづけていた。セガンティニには、アルプスの高原の自然のなかに――いわば人間の住める自然のぎりぎりの限界のようなところに人間を置いて描いているような絵が多いが、その絵がどれもこれも妙に人なつこい。人間の世界から離れれば離れるほど、そしてそこに描かれてあるアルプスの風景がいよいよきびしければきびしいほどセガンティニの絵のもっている人なつこさはいよいよ切実になってくる。――そこにセガンティニの絵の写真を見ただけでも、僕たちが何か心を動かされるものがありはすまいか。……そうだ、僕がさっき草原に立った木をしみじみと見ているうちに、ふいと何か思い出せそうで思い出せずにいたもの、そのために知らず知らず心を一ぱいにさせていたもの、それはそんな木の或る恰好《かっこう》ばかりではなしに、こういう高原のなかに生を得ているすべての小さな生きもののもっている深い味なのだ。それらのものは、ちょっと見ると、何か近づきがたいような孤独の相を帯びてみえるけれど、それらのものほど人なつこいものはないのだ。それほど切実に、存在の本質にあくがれているものはないのだ。……
そんなことを考えつづけながら、僕はもう自分の泥だらけになった靴の重たさもさほど苦にしなくなっていた。
「あそこの藪《やぶ》のなかに馬が二三匹草を食べていますね。もう村が近づいてきたのではないでしょうか。」
M君は自分の大きな身体をすこし持ち扱かい出しているように見える。
「畠もあるじゃないか。」僕はおもわず声をはずませた。「もう村に着いたようなものだ。」
いつか僕たちの歩いている街道は草原から離れて、両側が雑木林だの畠だのに変ってきた。そうしてすこし坂道になり出した。そういう地形の変化は、もうさすがの曠野も果てようとしていることを思わせた。それに元気づき、だんだん急になるその坂道をあがってゆくと、その突きあたりに一軒の藁屋根《わらやね》の家が見え出し、そうしてその家の前の、ちょうど山かげになった道のほとりで、一人の痩《や》せた老人がそこだけまだ一面に残っている雪をシャベルかなんかで掻きよせていた。
そこまで坂をあがり切って、その手にしたシャベルに凭《よ》りかかって一息ついている老人に軽く会釈しながら、ふとそのそばを通り過ぎようとした途端、すぐ目のまえに、川を挟んだ小さな部落が見え、そうしてその中ほどには、古びた木橋が一つ、いかにも人なつこそうに、そうして「板橋」という名前をもった村の目じるしのように懸かっていた。そうしていつか私達の眼界から遠ざかっていた八つが岳が、又、ちょうどその橋の真上に、白じろと赫《かが》いていた。
辛夷の花
「春の奈良へいって、馬酔木《あしび》の花ざかりを見ようとおもって、途中、木曾路をまわってきたら、おもいがけず吹雪に遭いました。……」
僕は木曾の宿屋で貰った絵はがきにそんなことを書きながら、汽車の窓から猛烈に雪のふっている木曾の谷々へたえず目をやっていた。
春のなかばだというのに、これはまたひどい荒れようだ。その寒いったらない。おまけに、車内には僕たちの外には、一しょに木曾からのりこんだ、どこか湯治にでも出かけるところらしい、商人風の夫婦づれと、もうひとり厚ぼったい冬外套《ふゆがいとう》をきた男の客がいるっきり。――でも、上松《あげまつ》を過ぎる頃から、急に雪のいきおいが衰えだし、どうかするとぱあっと薄日のようなものが車内にもさしこんでくるようになった。どうせ、こんなばかばかしい寒さは此処いらだけと我慢していたが、みんな、その日ざしを慕うように、向うがわの座席に変わった。妻もとうとう読みさしの本だけもってそちら側に移っていった。僕だけ、まだときどき思い出したように雪が紛々と散っている木曾の谷や川へたえず目をやりながら、こちらの窓ぎわに強情にがんばっていた。……
どうも、こんどの旅は最初から天候の具合が奇妙だ。悪いといってしまえばそれまでだが、いいとおもえば本当に具合よ
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