じと僕の方を見ながら言った。「――でも、もうすっかり雪がなくなってしまっていて。なんだか……」
「いやあ、雪なんぞはどうでもいいですよ。」
 僕はあわてて手をふりながら、それを遮った。
「こないだの雪は午前中ふったきりでしたの。大ぶ積ったことは積りましたけれど、午後から日があたって見る見るとけていってしまうので、あんな手紙なんか出してしまって、気が気でありませんでしたわ。――でも、まだあそこいらには少しばかり残っていますの。」
 もう薄暗くなり出している林の奥のほうにまだいくらか残雪が何かの文様《もよう》のようにみえるのを、万里子さんはすこし気まり悪そうにして示した。
 僕はもうそんなものはどうでもよかったが、すっかり葉が落ちて林の中がどこまでも透いてみえたりするのを珍らしそうに見ているM君におつきあいして、その儘《まま》しばらく三人でそこに立って見ていた。そのうち小屋のかげからボブが飛び出してきた。
「ボブ、駄目よ。……」万里子さんはその人なつこい犬が泥足でもって僕のほうに飛びかかろうとするのを、すばやく捕まえた。
「よう。」K君が小屋の中から首だけ出して僕たちに声をかけた。「何をしているんだい。寒いだろう。」
「こないだの雪をお見せしていますの。」万里子さんはボブがもがくのを漸《や》っとおさえつけながら言った。
「雪なんぞはもうありあしないだろう。」寒がりのK君はうちの中でも頸巻《くびまき》をしたままで、小屋から出て来ようともせずに僕たちを促した。「早くはいりたまえ。」

「さっきここの林のいりぐちで、クルツといったかな、あの、変な女を見かけたが、なんだか夏とは見ちがえるような、凄い毛皮の外套を着て、真紅なベレかなんぞかぶって、気どった風に歩いていたが、こんな冬の村に一人きりで何をしているんだろう?」僕は煖炉《だんろ》で体が温まると、突然その不思議な女のことを思いながら言った。
「では、きょうまた見にきたのでしょうか。これで三度目ですわ、」万里子さんは急に目を大きくして、頸巻をしたまま煖炉の火を掻きまわしていたK君のほうを見た。
「なんだかよく来るね。」K君はやっと手を休めながらその話に加わった。「このすこし向うに、十一月ごろまでいた独逸人《ドイツじん》の一家がいてね、それがクリスマス頃になったらまた来るからと云って、一時引き上げていったのさ。――その人達がまだ来ていないかどうかと、そうやってもう二週間ぐらいも前から、毎日のようにその女が様子を見にくるのだよ。二三度、僕たちのところにも立ち寄って、何か心配そうに様子をきくので、こっちでもその度に相手になってやっていたが、問い合わせの手紙でも出したらどうかと云うと、ただ首をふっているきりなのだ。もうその家では来ないことが分かっているのだ。それだのにこの頃は一日のうちに二度も三度もやって来るんだ。いつもあの毛皮の外套をきて、紅いベレをかぶって。――そうしてその度に、僕たちの家の中をじいっと見てゆくんだ。それをまた万里子が薄気味わるがってね。……」
「結局、一人でさびしくってしようがないんだな。こっちにいる他の外人とは全然つきあわないのかい。」
「どうもその女だけ除《の》けものにされているらしい。村の人にきくとあの女はしようがありませんと云って、てんで相手にならないんだ。」
「そんななのかい。――僕はどういう素性の女かよく知らないが、夏なんぞその女が奇妙ななりをして、買物袋をぶらさげながらなんだかしょぼしょぼして歩いているのを見かけては、何者だろうとおもっていたんだがね。あれで、この夏聞いたことだが、恋人がいるんだそうだ。毎夏やってくるハンガリイの音楽家でね、その男と町などで逢うと、人中だろうと何だろうと構わずに立ち止まって、黙ってその音楽家の顔を穴のあくほどじっと見つめているのだそうだよ。それがもうかれこれ十年来の意中の人なのだそうだ。」
「あの女にもそんな話がね。」K君はうなずいていた。
 「どうもこんなところに来ている外人には突拍子《とっぴょうし》もない奴がいるものだな。――夏あんなに見すぼらしいなりをしていた女が、冬になって誰れもいなくなると、急にすばらしい毛皮の外套なんぞを着込んで林の中をあるいていようなんて、想像もできないことだよ。だが、ああして一人っきりでもって、よく暮らしていられるものだなあ」
「本当によく暮らしているね。……」K君も考え深そうに答えた。
「だが、人のことよりか、君も寒がりのくせに、こんなところでよく我慢しているね。――どうして暮らしているだろうと、ときどき噂をしていたよ。」
「暮らそうとおもえば、どんなことをしても暮らせることが分かったよ。それに寒さだって、こういうものだと思ってしまえば、いくらでも我慢していられるね」
「でも、万里子さん。」と僕は言葉を挿《はさ》んだ。「あなたの方の為事《しごと》は大へんでしょう?」
「そんなでもありませんわ、いまのところ何んにも困りませんの。」万里子さんはそんな事はいかにも何んでもなさそうな答えかたをした。
「そりあ困らないわけさ、一週間も同じものばかり食べさせられていても、僕はなんにも言わないんだもの。」K君はそうは言っても、すこしも不平そうではなかった。むしろ、そういう山のなかの簡素な暮らしを好んでいるようにさえ見えた。
 夕食は、しかし山のなかでは思いがけない御馳走だった。ひさしぶりに四人で鳥鍋をかこみながら身も心も温かになって、世はさまざまな話をするのは愉《たの》しかった。
 僕はこの秋から冬にかけてひとりで旅して歩いた大和路のことを話した。それからその旅のおわりに、エル・グレコの絵を見てきたことなども話した。――その倉敷という小さな町まで五時間もかかって往って、やっとそこの美術館にたどりつき、画廊にはいるなり、すぐエル・グレコの絵に近づいて見ると、それは思ったより小さなものだったが、いかにも凄い絵で、一ぺんではねつけられ、しかたなく他のゴッホやロオトレックなどを一とおり丁寧に見て歩いてから、一番最後に再びそれに近づいたら、こんどはやっと少し平静な気分でその絵に向えたことなど話しながら、エル・グレコなんぞの絵の自分たちにとって、なまやさしいものでないことをしみじみと告白した。
「それもごく小さな「受胎告知図」なんだがね。そこでは、この抒情的な画題に対していだいている僕たちの観念がものの見事に粉砕せられてしまっているのだ。天使は天使で、闇のなかから突然ぎらぎらと光を発する異常なものとして描かれているし、その天使のほうを驚いて見あげている処女の顔も何かただならぬように見える。すべてがいかにも悲劇的な感じなのだ。……こんどはこの一枚だけでもよく見てゆこうとおもって、ずいぶん一所懸命になって見てきたつもりだが、どうしてもまだその絵が分かったようで分からない。そう、分らないというより、なんだかこんな絵がこんなところに来ているのが不思議な気がしてくるのだ。なんだかそれがあるべき場所にいないような……それほど何か異様なのだ……」
「そのグレコの絵は僕も見たいね。」K君は何かじっと煖炉《だんろ》の上の空間を見入っているらしかった。
「こうやって火を焚《た》いていると夜でもちっとも淋しくないでしょう。」僕はふいと万里子さんのほうを向いて言葉をかけた。いつのまに台所からはいって来たのか、万里子さんの足もとにはボブが温かそうにうずくまりながら、僕たちの団欒《だんらん》のなかに加わっていた。
「――僕ははじめてここで冬を越すことになったとき、夕方になるといつも淋しくって淋しくってどうしようかとおもうのだけれど、すっかり夜になって火をどんどん焚きはじめると、もうちっとも淋しくなくなったものでしたよ。」
「本当に。」方里子さんは大きい目でしげしげと僕のほうを見かえしながら、深くうなずいた。
 それからまた煖炉を前にして、ひとしきりさまざまな話がはずんだ。……
 その夜十時過ぎ、僕たちは宿に引き上げることにした。K君たちもそこまでちょっと送ろうといって頸巻《くびまき》をしたり、外套《がいとう》をきたりしだしていた。もういいからとことわっても、一しょに小屋を出た。ボブもあとからくっついてきた。夜の空気は稀薄で、痛いように冷え切っていた。僕たちはあすは何処かもっと山の方――菅平《すがだいら》か、野辺山《のべやま》あたりまで出かけ、妻がこちらに来る頃にまた戻ってくることを約束して林のはずれで別れた。
 僕たちはそれから沈黙がちに、枯木の下を抜け抜け、僕たちの靴に踏まれて凍った土の割れる音を耳にしながら、歩いていった。するともう一つ、ときどき何処かから、それとはちがった、硬い、金属的な幽《かす》かな音が聞えて来た。
「あれは何んの音でしょう?」M君がいぶかしそうに訊《き》いた。
「ああ、あれかい。あれは、君、枯枝と枯枝とが風でぶつかる音だよ。――ほら、ああやってちょっとぶつかるだけでも、ずいぶん鋭い音を立てるだろう。空気がぱりぱりになっているのだね。……」
 そう言いながら、一しょに頭上の梢をみあげていると、絶えずかすかに揺れている枯枝の網を透いて、一めんの星空だった。そうしてその星のひとつひとつが東京なんぞの空で見えるよりかずっと大きく見えた。
 突然、右手の空家の庭の一隅で、がさがさと溜《たま》った落葉がひっかきまわされるような音がきこえた。何か白いものがそこいらをひとりで駈けずりまわっていた。
「ボブ!」僕はそのほうへ声をかけて見た。
 すると、まるでその木魂《こだま》のように、向うの林の奥から「ボブ!」と呼ぶ声がかすかにした。
「いまのは万里子さんらしいね。静かだなあ。なんだか、こう、ひさしぶりで昔の冬に出逢ったような気もちがしてならないよ。……」
「またこちらで冬をお越しになりませんか?」M君はさもそれが何んでもないことのように言った。
「そういうこともときどきは考えている。……」僕はただそう言ったぎりだった。
 僕たちはまた凍った土を踏み割りながら、徐《しず》かに歩き出した。

    ※[#アステリズム、1−12−94]

 翌日。僕たちは朝はやく小諸《こもろ》まで往き、そこから八つが岳の裾野を斜に横切るガソリン・カアに乗り込んだ。もう冬休みになっていても、この山麓地方《さんろくちほう》はあまりスポルティフではないので、乗客は僕たちのほかはみんな土地の人たちらしかった。
 南佐久《みなみさく》の村々の間をはじめの一時間ばかりは何事もなく千曲川に沿ってゆくだけだが、そのうち川辺の風景が少しずつ変ってきて、白楊《はこやなぎ》や樺《かば》の木など多くなり、石を置いた板屋根の民家などが目立ちだした。そうしてそれらの枯木だの、家だのの向うに、すっかり晴れ切った冬空のなかに、真白な八つが岳の姿がくっきりと見えるようになって来た。
 そうやってまだ人家のおおい平原を横切りながら、ぐんぐんと雪のある山に近づいてゆく一種の云い知れない快感を満喫しながら、僕は時々、物陰などにまだ残っている雪の工合などへも目を配っていた。
「この分では、野辺山までいっても雪は大したことはなさそうだぜ。」
 僕はそんなことを口ごもったりした。
「そうですかしら。」M君はもう見当がつかないような様子をして、ただ窓の向うに白く赫《かがや》いている八つが岳のほうを見つづけていた。
 そのうち、だんだん谷間のようなところにはいり出す。しばらくはもう山々ともお別れだ。そうして急に谷川らしくなりだした千曲川の流れのまん中に、いくつとなく大きな石がころがっているのばかり目に立ってくる。そんな谷の奥の、海《うん》の口《くち》という最後の村を過ぎてからも、ガソリン・カアはなおも千曲川にどこまでも沿ってゆくように走りつづけていたが、急に大きなカアブを描いて曲がりながら、楢林《ならばやし》かなんぞのなかを抜けると、突然ぱあっと明かるい、広々とした高原に出た。そうしてまだ雪もかなり沢山残っているその草原の向うの一帯の森のうえに、真白な八つが岳――そのうちでも立派な赤岳と横
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