しみにしておいてやれとおもって止めた。その代り、食堂にはじめて出るまえに、奮発して髭《ひげ》を剃《そ》ることにした。
[#地から1字上げ]十月十一日朝、ヴェランダにて
けさは八時までゆっくりと寝た。あけがた静かで、寝心地はまことにいい。やっと窓をあけてみると、僕の部屋がすぐ荒池《あらいけ》に面していることだけは分かったが、向う側はまだぼおっと濃い靄《もや》につつまれているっきりで、もうちょっと僕にはお預けという形。なかなかもったいぶっていやあがる。さあ、この部屋で僕にどんな仕事が出来るか、なんだかこう仕事を目の前にしながら嘘みたいに愉《たの》しい。きょうはまあ軽い小手しらべに、ホテルから近い新薬師寺ぐらいのところでも歩いて来よう。
[#地から1字上げ]夕方、唐招提寺にて
いま、唐招提寺《とうしょうだいじ》の松林のなかで、これを書いている。けさ新薬師寺のあたりを歩きながら、「城門のくづれてゐるに馬酔木《あしび》かな」という秋桜子《しゅうおうし》の句などを口ずさんでいるうちに、急に矢《や》も楯《たて》もたまらなくなって、此処に来てしまった。いま、秋の日が一ぱい金堂や講堂にあたって、
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