そうに、この美しい像は相変らずあどけなく頬笑まれながら、静かにお立ちになっていられる。……
 しかしながら、此のうら若い少女の細っそりとしたすがたをなすっていられる菩薩像《ぼさつぞう》は、おもえば、ずいぶん数奇《すき》なる運命をもたれたもうたものだ。――「百済観音」というお名称も、いつ、誰がとなえだしたものやら。が、それの示すごとく古朝鮮などから将来せられたという伝説もそのまま素直に信じたいほど、すべてが遠くからきたものの異常さで、そのうっとりと下脹《しもぶく》れした頬のあたりや、胸のまえで何をそうして持っていたのだかも忘れてしまっているような手つきの神々しいほどのうつつなさ。もう一方の手の先きで、ちょいと軽くつまんでいるきりの水瓶《すいびょう》などはいまにも取り落しはすまいかとおもわれる。
 この像はそういう異国のものであるというばかりではない。この寺にこうして漸《や》っと落ちつくようになったのは中古の頃で、それまでは末寺の橘寺《たちばなでら》あたりにあったのが、その寺が荒廃した後、此処に移されてきたのだろうといわれている。その前はどこにあったのか、それはだれにも分からないらしい。と
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