色が、どの仏たちのまわりにも、なんともいえず愉《たの》しげな雰囲気をかもし出している。そうしてその仏たちのお貌だの、宝冠だの、天衣《てんね》だのは、まだところどころの陰などに、目のさめるほど鮮やかな紅だの、緑だの、黄だの、紫だのを残している。西域あたりの画風らしい天衣などの緑いろの凹凸のぐあいも言いしれず美しい。東の隅の小壁に描かれた菩薩《ぼさつ》の、手にしている蓮華《れんげ》に見入っていると、それがなんだか薔薇《ばら》の花かなんぞのような、幻覚さえおこって来そうになるほどだ。
 僕は模写の仕事の邪魔をしないように、できるだけ小さくなって四壁の絵を一つ一つ見てまわっていたが、とうとうしまいに僕もSさんの櫓《やぐら》の上にあがりこんで、いま描いている部分をちかぢかと見せて貰った。そこなどは色もすっかり剥《は》げている上、大きな亀裂が稲妻形にできている部分で、そういうところもそっくりその儘《まま》に模写しているのだ。なにしろ、こんな狭苦しい櫓の上で、絵道具のいっぱい散らばった中に、身じろぎもならず坐ったぎり、一日じゅう仕事をして、一寸平方位の模写しかできないそうだ。どうかすると何んにもない
前へ 次へ
全127ページ中37ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
堀 辰雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング