、よけくもぞなき。現身《うつそみ》とおもひし妹《いも》が、玉かぎるほのかにだにも見えぬ、思へば。」――人は死んでしばらくの間は山の奥などに生きているときとすこしも変らない姿をして暮らしているものだと、老人などのいうことを聞いて、亡くなった妻恋いしさのあまりに、もしやとおもって、岩を踏み分けながら、骨を折って山のなかを捜してみたが、それも空しかった。ひょっとしたら在りし日さながらの妻の姿をちらりとでも見られはすまいかと思っていたが、ほんの影さえも見ることができなかった。――これはその長歌の後半をなしている部分ですが、ここにも人麻呂の死に対する同様の観念があらわれております。――すこしそれが露骨に出すぎている位で、いかにも情趣のふかい前の歌ほど僕は感動をおぼえません。でも、「大鳥《おおとり》の羽《は》がひの山」などというその山の云いあらわしかたには一種の同情をもちます。翼を交叉《こうさ》させている一羽の大きな鳥のような姿をした山、――何処にあるのだか分からないけれども、なんだかそんな姿をした山が何処かにありそうな気がする、そんな心象を生じさせるだけでもこの山の名ひとつがどんなに歌全体に微妙に利いているか分かりません。いろいろな学者が「大鳥《おおとり》の」を枕詞《まくらことば》として切り離し、「羽買山《はがひやま》」だけの名をもった山をいろいろな文献の上から春日山の附近に求めながら、いまだにはっきり分からないでいるようであります。勿論、学としてはそういう努力が大切でありましょうが、これを歌として味わう上からは、そういう羽買山ではなしに、何処かにありそうな、大きな鳥の翼のような形をした山をただぼんやりと浮かべて見ているだけの方がいいような気がするのです。……
僕は数年まえ信濃の山のなかでさまざまな人の死を悲しみながら、リルケの「Requiem《レクヰエム》」をはじめて手にして、ああ詩というものはこういうものだったのかとしみじみと覚《さと》ったことがありました。――そのときからまた二三年立ち、或る日万葉集に読みふけっているうちに一聯《いちれん》の挽歌に出逢い、ああ此処にもこういうものがあったのかとおもいながら、なんだかじっとしていられないような気もちがし出しました。それから僕は徐《しず》かに古代の文化に心をひそめるようになりました。それまでは信濃の国だけありさえすればいいような気のしていた僕は、いつしかまだすこしも知らない大和の国に切ないほど心を誘われるようになって来ました。……
※[#アステリズム、1−12−94]
そういうようにして漸《や》っとはじめて大和路に来た三年前のこと、君と一しょに見た、菖蒲池古墳のことから、つい考えのまにまに思わぬことを長ながと書いてしまいましたが、別に最初からどういうことを書こうかと考えて書き出したわけのものでもないので、これはこれとしてお読み下さい。
――でも、最初まあそんなものでも書こうとしかけていた僕のきょうの行程を続けてみますと、そうやって軽のあたりをさまよった後、剣《つるぎ》の池《いけ》のほうに出て、それから藁塚《わらづか》のあちこちに堆《うずたか》く積まれている苅田のなかを、香具山《かぐやま》や耳成山《みみなしやま》をたえず目にしながも歩いているうちに、いつか飛鳥川のまえに出てしまいました。ここいらへんはまだいかにも田舎じみた小川です。が、すこしそれに沿って歩いていますと、すぐもう川の向うに雷《いかずち》の村が見えてきました。土橋があって、ちょっといい川原になっています。僕はそこまで下りて、小さな石に腰かけながら浅いながれに目をそそいでいました。なんだか鶺鴒《せきれい》でもぴょんぴょん跳ねていたら似合うだろうとおもうような、なんでもない景色です。それから僕は飛鳥の村のほうへ行く道をとらずに、甘橿《あまがし》の丘《おか》の縁を縫いながら、川ぞいに歩いてゆきました。ここいらからはしばらく飛鳥川もたいへん好い。このまえ五月に君と一しょに歩いたときからよほど僕の気に入ったものと見えます。あのときにはあそこの丘の端に桐の花が咲いていた、このへんの道ばたには一もと野茨《のいばら》の花も咲いていたと、そんな小さな思い出までも浮かんでくる位なのです。……
こんなことをまた書き出していたらきりがありません。もうおもい切ってここいらで筆をおきます。――その日の夕がた、最後のバスに乗りおくれた僕はしようがなく橘寺をうしろにして一人でてくてく歩き出しました。途中で夕焼けになり、南のほうに並んでいる真弓《まゆみ》の丘などが非常に綺麗に見えました。それから僕はせっかくその前まで来ているのだからと思って、菖蒲池古墳のある丘を捜してそこまで上がっていって見ました。が、その古墳の前まで辿《たど》りついたとき
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