いま細部の工夫などを愉《たの》しんでやっている。日暮れごろ、また高畑のほうへ往って、ついじの崩れのあるあたりを歩いてきた。尾花が一めんに咲きみだれ、もう葉の黄ばみだした柿の木の間から、夕月がちらりと見えたり、三笠山の落ちついた姿が渋い色をして見えたりするのが、何んともいえずに好い。晩秋から初冬へかけての、大和路はさぞいいだろうなあと、つい小説のほうから心を外《そ》らして、そんな事を考え出しているうちに、僕は突然或る決心をした。――僕はやはり二三日うちに、荷物はこのまま預けておいて、ホテルを引き上げよう。しかし、いかるがの宿に籠《こ》もるのではない。東京へ帰る。そうしておまえの傍で、心しずかにこの仕事に向い、それを書き上げてから、もう一度、十一月のなかば過ぎにこちらに来ようというのだ。そうして大和路のどこかで、秋が過ぎて、冬の来るのを見まもっていたい。都合がついたら、おまえも一しょにつれて来よう、どうもいまこうして奈良にいると、一日じゅう仕事に没頭しているのが何んだかもったいなくなって、つい何処かへ出かけてみたくなる。何処へいっても、すぐもうそこには自分の心を豊かにするものがあるのだからなあ。しかし、昼間はそうやって歩きまわり、夜は夜で、落ちついてゆうべの仕事をつづけるなんという真似のできない僕のことだから、いっそこのまま出来かけの仕事をもって東京へ帰った方がいいのではないか、とまあそんな事も一とおりは考えに入れたうえの決心なのだ。
 僕はホテルに帰ってくると、また気のかわらないうちにとおもって、すぐ帳場にそのことを話し、しあさっての汽車の切符を買っておいて貰うことにした。

[#地から1字上げ]十月二十六日、斑鳩の里にて
 きょうはめずらしくのんびりした気もちで、汽車に乗り、大和平をはすに横ぎって、佐保川に沿ったり、西の京のあたりの森だの、その中ほどにくっきりと見える薬師寺の塔だのをなつかしげに眺めたがら、法隆寺駅についた。僕は法隆寺へゆく松並木の途中から、村のほうへはいって、道に迷ったように、わざと民家の裏などを抜けたりしているうちに、夢殿の南門のところへ出た。そこでちょっと立ち止まって、まんまえの例の古い宿屋をしげしげと眺め、それから夢殿のほうへ向った。
 夢殿を中心として、いくつかの古代の建物がある。ここいらは厩戸皇子《うまやどのおうじ》の御住居のあとであり、向うの金堂《こんどう》や塔などが立ち並んでおのずから厳粛な感じのするあたりとは打って変って、大いになごやかな雰囲気を漂わせていてしかるべき一廓《いっかく》。――だが、この二三年、いつ来てみても、何処か修理中であって、まだ一度もこのあたりを落ちついた気もちになって立ちもとおったことがない。
 いまだにそのまわりの伝法堂などは板がこいがされているが、このまえ来たとき無慙《むざん》にも解体されていた夢殿だけは、もうすっかり修理ができあがっていた。……
 そこで僕はときどきその品のいい八角形をした屋根を見あげ見あげ、そこの小ぢんまりとした庭を往ったり来たりしながら、
 
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ゆめどのはしづかなるかなものもひにこもりていまもましますがごと
義疏《ぎそ》のふでたまたまおきてゆふかげにおりたたしけむこれのふるには
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 そんな「鹿鳴集」の歌などを口ずさんでは、自分の心のうちに、そういった古代びとの物静かな生活を蘇《よみがえ》らせてみたりしていた。
 僕は漸《ようや》く心がしずかになってから夢殿のなかへはいり、秘仏を拝し、そこを出ると、再び板がこいの傍をとおって、いかにも虔《つつ》ましげに、中宮寺の観音を拝しにいった。――
 それから約三十分後には、僕は何か赫《かがや》かしい目つきをしながら、村を北のほうに抜け出し、平群《へぐり》の山のふもと、法輪寺《ほうりんじ》や法起寺《ほっきじ》のある森のほうへぶらぶらと歩き出していた。
 ここいら、古くはいかるがの里と呼ばれていたあたりは、その四囲の風物にしても、又、その寺や古塔にしても、推古時代の遺物がおおいせいか、一種蒼古な気分をもっているようにおもわれる。或いは厩戸皇子のお住まいになられていたのがこのあたりで、そうしてその中心に夢殿があり、そこにおける真摯《しんし》な御思索がそのあたりのすべてのものにまで知《し》らず識《し》らずのうちに深い感化を与え出していたようなことがあるかも知れない。そうしてこのあたりの山や森などはもっとも早く未開状態から目覚めて、そこに無数に巣くっていた小さな神々を追い出し、それらの山や森を朝夕うちながめながら暮らす里人たちは次第に心がなごやかになり、生きていることのよろこびをも深く感ずるようになりはじめていた。……
 そうだ、僕はもうこれから二三年勉強した上でのことだ
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