にはもう日がとっぷりと昏《く》れて、石廓《せっかく》のなかはほとんど何も見えない位でした。それでも僕はバスに乗りおくれたばかりにもう一度それが見られて反って好いことをしたと思いながら、もと来た道を引っかえして再び駅のほうへ薄暮のなかを歩いてゆきました。それからまた五条野のあたりで道に迷って、やっと駅に著《つ》いたときは月の光を背に浴びていたことは前にも書きました。
 もう大ぶ夜もふけたようです。あすからの旅のことを思いながら、ちょっと部屋の窓をあけてみたら、凄いような月の光のなかに、荒池がほとんど水を涸《か》らしてところどころ池の底のようなものさえ無気味に見せています。僕はなんということもなしに複製で見たエル・グレコの絵を浮かべました。――こんやはどうも寝たくはないような晩だけれども、あすの朝は早いのだし、それに四時間ばかり汽車にも乗らなければならないのだから、なんとかうまくあやして自分を寝つかせましょう。
[#地から1字上げ]一九四一年十二月四日、奈良ホテルにて


  斑雪《はだれ》


「冬になって、雪がふったら、すぐ知らせて下さい。そのときはきっと、一人ででもやって来ますから。……」
 その山の村にとうとう居残って冬を越すことになったK君夫妻に僕はその秋のなかばその村を立ち去るとき、そう云い残していった。
「……けさほどから急に雪がふりだしていますの。この分では大ぶ積りそうですので、主人が早くお知らせした方がいいと申しますから、これからこの手紙をもって雪のなかを郵便局まで一走りいたします」
 ――万里子《まりこ》さんからそう云ってよこしたのは、もう十二月も末近かった。
 僕はまえから雪の信濃路を見たがっていた学生のM君を誘ったり、一しょに往く筈だった妻の都合が悪かったりして、すこし出かけるのに手間どり、妻だけ二三日あとから来させることにして、漸っとその小さな冬の旅に出たのは、それから四五日たってからのことだった。……
 ゆうがた着いたその山の村には、数日まえの雪はもう殆ど消え、林の中などにところどころわずかに雪らしいものが残っているきりだった。そんな一つの林の奥に、K君たちが冬ごもりをしている山小屋がある。
「まあ、よくいらっしゃいました」その小屋の中から飛びだしてきて僕たちを出むかえた万里子さんは、一とおり挨拶がすむと、さも困ったように大きい目をしてまじま
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