テルでして、一日じゅう新らしいものに取りかかっていた。――こないだ折口博士の論文のなかでもって綺麗だなあとおもった葛《くず》の葉《は》という狐の話。あれをよんでから、もっといろんな狐の話をよみたくなって、霊異記《りょういき》や今昔物語などを捜して買ってきてあったが、けさ起きしなにその本を手にとってみているうちに、そんな狐の話ではないが、そのなかの或る物語がふいと僕の目にとまった。
それは一人のふしあわせな女の物語。――自分を与え与えしているうちにいつしか自分を神にしていたようなクロオデル好みの聖女とは反対に、自分を与えれば与えるほどいよいよはかない境涯に堕《お》ちてゆかなければならなかった一人の女の、世にもさみしい身の上話。――そういう物語の女を見いだすと、僕はなんだか急に身のしまるような気もちになった。これならば幸先《さいさ》きがよい。そういう中世のなんでもない女を描くのなら、僕も無理に背のびをしなくともいいだろう。こんやもう一晩、この物語をとっくりと考えてみる。
ジャケット届いた。本当にいいものを送ってくれた。けさなどすこうし寒かったので、一枚ぐらいジャケットを用意してくればよかったとおもっていたところだ。こんやから早速|著《き》てやろう。
[#地から1字上げ]十月二十四日夜
ゆうがた、浅茅《あさぢ》が原《はら》のあたりだの、ついじのくずれから菜畑などの見えたりしている高畑《たかばたけ》の裏の小径《こみち》だのをさまよいながら、きのうから念頭を去らなくなった物語の女のうえを考えつづけていた。こうして築土《ついじ》のくずれた小径を、ときどき尾花《おばな》などをかき分けるようにして歩いていると、ふいと自分のまえに女を捜している狩衣《かりぎぬ》すがたの男が立ちあらわれそうな気がしたり、そうかとおもうとまた、何処かから女のかなしげにすすり泣く音がきこえて来るような気がして、おもわずぞっとしたりした。これならば好い。僕はいつなん時でも、このまますうっとその物語の中にはいってゆけそうな気がする。……
この分なら、このままホテルにいて、ときどきここいらを散歩しながら、一週間ぐらいで書いてしまえそうだ。
[#地から1字上げ]十月二十五日夜
けさちょっと博物館にいっただけで、あとは殆ど部屋とヴェランダとで暮らしながら、小説の構想をまとめた。構想だけはすっかり出来た。
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