い》はつづけられそうもない。それからH君はこちらに滞在中に、ちか頃になく詩がたくさん書けたといって、いよいよ僕をうらやましがらせた。
四時ごろ、一足さきに帰るというH君を郡山《こおりやま》行きのバスのところまで見送り、それから僕は漸っとひとりになった。が、もう小説を考えるような気分にもなれず、日の暮れるまで、ぼんやりと斑鳩《いかるが》の里をぶらついていた。
しかし、夢殿の門のまえの、古い宿屋はなかなか哀れ深かった。これが虚子の「斑鳩物語」に出てくる宿屋。なにしろ、それはもう三十何年かまえの話らしいが、いまでもそのときとおなじ構えのようだ。もう半分家が傾いてしまっていて、中二階の廊下など歩くのもあぶない位になっている。しかしその廊下に立つと、見はらしはいまでも悪くない。大和の平野が手にとるように見える。向うのこんもりした森が三輪山《みわやま》あたりらしい。菜の花がいちめんに咲いて、あちこちに立っている梨の木も花ざかりといった春さきなどは、さぞ綺麗だろう。と、何んということなしに、そんな春さきの頃の、一と昔まえのいかるがの里の若い娘のことを描いた物語の書き出しのところなどが、いい気もちになって思い出されてくる。――しかし、いまはもうこの里も、この宿屋も、こんなにすっかり荒れてしまっている。夜になったって、筬《おさ》を打つ音で旅びとの心を慰めてくれるような若い娘などひとりもいまい。だが、きいてみると、ずっと一人きりでこの宿屋に泊り込んで、毎日、壁画の模写にかよっている画家がいるそうだ。それをきいて、僕もちょっと心を動かされた。一週間ばかりこの宿屋で暮らして、僕も仕事をしてみたら、もうすこしぴんとした気もちで仕事ができるかも知れない。
どのみち、きょうは夢殿や中宮寺なんぞも見損ったから、またあすかあさって、もう一遍出なおして来よう。そのときまでに決心がついたら、ホテルなんぞはもう引き払って来てもいい。……
そんな工合で、結局、なんにも構想をまとめずに、暗くなってからホテルに帰ってくると、僕は、夜おそくまで机に向って最後の努力を試みてみたが、それも空しかった。そうして一時ちかくなってから、半分泣き顔をしながら、寝床にはいった。が、昼間あれだけ気もちよげに歩いてくるせいか、よく眠れるので、愛想がつきる位だ。――
けさはすこし寝坊をして八時起床。しかし、お昼もきょうはホ
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