ちにやって来ることになるかな。どうも大和のほうに住みつこうなんという気にはなれない。やっぱり旅びととして来て、また旅びととして立ち去ってゆきたい。いつもすべてのものに対してニィチェのいう「|遠隔の感じ《パトス・デル・ディスタンツ》」を失いたくないのだ。……
 そのくせ、いつの日にか大和を大和ともおもわずに、ただ何んとなくいい小さな古国《ふるくに》だとおもう位の云い知れぬなつかしさで一ぱいになりながら、歩けるようになりたいともおもっているのだ。たわわに柑橘類《かんきつるい》のみのった山裾をいい香りをかいで歩きながら、ああこれも古墳のあとかなと考え出すのは、どうもね。
 主 しかし、君はもう大抵大和路は歩きつくしたろうね。
 客 割合に歩いたほうだろうが、ときどきこんなところでと、――本当に思いがけないような風景が急に目のまえにひらけ出すことがある。
 この春も春日野《かすがの》の馬酔木《あしび》の花ざかりをみて美しいものだとおもったが、それから二三日後、室生川《むろうがわ》の崖のうえにそれと同じ花が真っ白にさきみだれているのをおやと思って見上げて、このほうがよっぽど美しい気がしだした。大来皇女《おおくのひめみこ》の挽歌《ばんか》にある「石《いそ》のうへに生《お》ふる馬酔木《あしび》を手折らめど……」の馬酔木はこれでなくてはとおもった。そういう思いがけない発見がときどきあるね。まあ、そんなものだけをあてにして、できるだけこれからも歩いてみるよ。――だが、まだなかなか信濃の高原などを歩いていて、道ばたに倒れかかっている首のもぎとれた馬頭観音などをさりげなく見やって、心にもとめずに過ぎてゆく、といったような気軽さにはいかない。……
 それでいて、そのふと見過ごしてきた首のない馬頭観音の像が、何かのはずみで、ふいと、そのときの自分の旅すがたや、そのまわりの花薄《はなすすき》や、その像のうえに青空を低くさらさらと流れていた秋の雲などと一しょになって、思いがけずはっきりと蘇《よみがえ》ってくるようなことがあったりする工合が、信濃路ではたいへん好かった。なんだか、そういったうつけたような気分で、いつの日か、大和路を歩けるようになりたいものだ。
 主 いい身分だね。そうやって旅行ばかりしていられるなんて。
 客 君なんぞにもそう見えるのかい。でも、僕はこんな弱虫だからね、不安な旅でな
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