が願わしいような、淡々とした気もちでいた。……
僕は目をつぶって、幌の穴から見ようとすれば見えたでもあろう、そのような雪の世界をただ想像裡《そうぞうり》に描きつづけながら、こういう自分の雪に対するそれほど烈しくもない、といって一時の気まぐれでもない、長いあいだの思慕のようなものが、いつ、どうして自分のなかに生じて来たのだろうかと考え出していると、突然、十年ほどまえ八つが岳の麓《ふもと》にあるサナトリウムで生を養っていた自分のすがたが鮮かによみ返ってきだした。冬になると、山麓《さんろく》のサナトリウムのあたりは毎日ただ生気なく曇っているだけなのに、山々はいつも雪雲で被われており、そんな雲のないときには、それらの山々は見事なほど真白なすがたをしていた。僕はそんな冬の日をどうしようもなしに暮らしながら、ときどき雪の山のほうへ切ない目ざしを向けるようになり出していた。そんな雪雲にすっかり被われている山のもなかを、なにか悲壮な人間の内部でも見たいように、おそるおそる見たがりながら。……
僕は、いま、その頃の自分にはとても実現せられそうもないように見えていた、こんな雪の中にはいり込んで来ているのだと思いながら、さて、べつにどうという感慨もなかった。悲壮のようなものはいささかも感ぜられなかった。寒さだって大したことはない。むしろ、雪のなかは温かで、なんのもの音もなく、非常に平和だ。そう、愉《たの》しいといったほうがいい位だ。橇《そり》の中にいて、小さな幌《ほろ》の穴から、空を見あげていると、無数の細かい雪がしっきりなしに、いかにも愉しげな急速度でもって落ちてくる。そうやってなんの音も立てずに空から落ちてくる小さな雪をじいっと見入っていると、その愉しげな雪の速さはいよいよ調子づいてくるようで、しまいにはどこか空の奥のほうでもって、何かごおっという微妙な音といっしょになってそれが絶えず涌《わ》いているような幻覚さえおこってくるようだ。
大きな壺に耳をあてていると、その壺の底のほうからごおっといって無数の音響が絶えまなしに涌きあがっている。――ちょうどああいった工合に何か愉しくて愉しくてならないように、無数の小さな雪が空の奥のほうで微かにごおっという音を立てながら絶えず涌いているような気がせられるのである。僕はいつまでも一ところからじっと、絶えず落ちてくる雪を見ている中に、そんな
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