た。
 続いて、もう一台の橇とすれちがった。こんどはどうやらうまくすれちがったようだったが、それも空らしかった。
 そうやって二台の橇とすれちがって、しばらくしてから僕はふいと時計を出してみると、橇に乗ってから一時間ばかりも経っているので、ああ、もうこんなに乗っていたのかと意外におもいながら、一体、いまどのへんなのだろうと、又、例の穴に顔を近づけてみると、ちょうど自分の橇の通っている岨《そば》の、ずっと下のほうの谷のようなところを二台の橇がずんずん下りてゆくのが、それだけが唯一の動きつつあるものとして、いかにもなつかしげに見やられた。それにしても、あれがいましがた自分とすれちがった橇かとおもわれる位、そんなにもう下のほうまで往っているのには驚いた。そうしてそれと共に、僕ははじめて自分のいつのまにかはいり出している山の深さに気がついてきた。それほど自分のそれまでの視野のうちには、いつまで経っても、同じような白い山、同じような白い谷、同じような恰好《かっこう》をした白い木立しかはいって来ないでいたのだった。

    ※[#アステリズム、1−12−94]

 僕はそれから橇のなかに再び坐りなおして、がたんがたん揺られるがままになりながら、いよいよ自分も久恋の雪の山に来ているのだなとおもった。ずいぶん昔から、いまのように、こうしてただ雪の山のなかにいること、――それだけをどんなに自分は欲して来たことだろう。べつに雪の真只中でどうしようというのでもない。――スポルティフになれない弱虫の僕は、ただこういう雪の中にじっとして、真白な山だの(――そう、山もそんなに大それたものでなくとも、丁度いま自分の前にあるような小品風なものでいい……)、真白な谷だの(――谷もあの谷で結構……)、雪をかぶったいくつかの木立のむれ(――あそこに立っている樺《かば》のような木などはなかなか好いではないか……)などをぼんやり眺めてさえいればよかった。
 ただすこし慾をいえば、ほんの真似だけでもいい、――真白な空虚にちかい、このような雪のなかをこうして進んでいるうちに、ふいと馭者も馬も道に迷って、しばらく何処をどう通っているのだか分からなくなり、気がついてみると、同じところを一まわりしていたらしく、さっきと同じ場所に出ている――そんな純粋な時間がふいと持てたらどんなに好かろう、とそんな他愛のないことだけ
前へ 次へ
全64ページ中56ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
堀 辰雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング