だらうと反對してゐる論者もある。
[#ここで字下げ終わり]
※[#アステリズム、1−12−94]
まだ私が説明しないでゐる最後の二つの無意的記憶もやはり、彼がその小さな圖書室の中でかかることを考へめぐらしてゐる間に、彼を襲ふのだ。水管の中で水が軋るやうな音を立てる。夏の夕方に、バルベックの沖合で遊覽船の立てた長い叫びにそつくりなその音響が、さながら自分がバルベックに居るやうな思ひを彼に抱かせる。……彼は書棚のうちにふと一册の本の表題――ジョルジュ・サンドの「フランソワ・ル・シャンピ」を見つける。すると彼は急に、何だか泣きたいやうな感動に襲はれてしまふ。子供の時分、いつも眠る前に、彼の母がその小説を讀んでくれたその折の、低い、子守唄のやうなくらゐにまで甘やかな彼女の聲が、いま彼の耳にまざまざと蘇つたからである。
音樂がやつと終つたので、彼はその圖書室を去つて、サロンの中へはひつて行く。戰爭が長いこと彼を社交界から離してゐた。彼は其處でいきなり假面舞踏會のやうな印象を受ける。彼は灰色の髮だの、白い髯だの、皺だらけの顏のうちに辛うじて彼の知人等を認める。最初彼がフ
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