の何かを修繕してゐた工夫のハンマアの音を喚起させたのだ。……給仕長が彼のためにオレンジエェドを持つてくる。彼は渡されたナプキンで口を拭く。すると今度は突然、青空の幻が彼の目の前をよこぎる。彼はまるで今自分がバルベックの海岸に臨んだホテルの窓の前に立つてゐるやうに感ずる。昔その窓を前にして彼が糊の利いたタオルでもつて骨を折りながら自分の體を拭いてゐた時のことが、いま彼が口を拭いてゐたばかりの硬ばつたナプキンによつてありありと思ひ出されたのだ……
さう云ふ經驗を繰り返してゐるうちに、彼は遂に彼の搜し求めてゐた一つの法則を發見するに至る。
「私のうちに再生したもの、……そのものは物體の原素《エッセンス》だけを食つてゐるのだ。そのものはその原素の中にのみ彼の食物、彼の無上の快樂を見出す。……嘗つて聞いたり嗅いだりしたことのある或る音響とか、或る匂ひとかが、再び――現在と過去とに於いて同時に、實在はしなくとも現實的に、抽象的にならずに觀念的に――聞かれたり嗅がれたりするや否や、忽ち物體の永續的なそして平常は隱れてゐるところの原素《エッセンス》が釋放される。そして或る時はずつと前から死んでゐるご
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