子《さんざし》の茂みを認めた。私のまはりには昔のマリアの月[#「マリアの月」に傍点]や、日曜の午後や、すつかり忘れてゐた信頼だの過失だのが一つの雰圍氣になつて漂つた。私はそれをつかまへたいと思つた。私は一瞬間立ち止つてゐた……」
 第六の經驗は「心の間歇」と呼ばれてゐる有名な一節だ。彼はその愛してゐた祖母の死後、母に連れられてバルベックのグランド・ホテルへ二度目に行く。(最初の時はその死んだ祖母と二人きりで行つたのだ)「最初の夜、私は心臓が苦しくてしやうがなかつたので、その苦痛をごまかすために、私は靴をぬがうとして注意深くしづかに屈んだ。しかし、私が私の深靴の最初のボタンに手をふれるや否や、私の胸は見知らない神々しいもので一ぱいになつて脹らんだ。鳴咽が私をゆすぶり、涙が私の目から流れた。」
 その瞬間に、數年前の、このホテルへ着いた最初の晩、疲れ切つた彼のために靴をぬがせてくれようとして、その上に身を屈めてゐた祖母のやさしい、氣づかはしげな顏が、その腕のなかへ身を投じたいやうな衝動を彼が感じたくらゐ、生き生きと完全に蘇つたのだ。そしてそれと同時に彼は初めてその祖母が死んだといふ事に、死んだのが誰であつたかといふ事に、氣づくのだ。そして彼はその祖母が死んでから一年許りと云ふもの、彼女のことも、彼女に對する自分のこまやかな愛情すらも、すつかり忘却してゐたこと(プルウストはそれを「心の間歇」と呼んでゐる)を認めて驚く。
 さて、最後の五つの經驗は「再び見出された時」の第二部のはじめに次から次へと連續的に起る。だからそれ全部でもつて一つの靈感を形づくるものと見て差支へない。其處でプルウストは彼の作品がいかにして生れたかを自ら語つてゐるのだ。

          ※[#アステリズム、1−12−94]

 ゲルマント邸に於けるマチネに招待されて、彼は途すがら、いかに自分には文學的才能が缺けてゐるか、のみならず文學そのものが空虚なものであるかを悲しい氣持で考へながら、其處へ出かけて行く。中庭を横切らうとしたとき彼はあんまりぼんやりしてゐたものだから、向うからくる自動車に氣づかなかつた。運轉手の叫びで、彼は慌てて脇へどく。そして彼は思はず出つぱつてゐた敷石につまづく。が、眞直にならうとして、彼がその足を前のよりもいくらか低くなつた石の上にのせた瞬間、彼の悲しい氣持は突然消えてしまふ。そしてその代りに、彼がバルベックの近くで馬車の上から認めた三本の樹木だとか、マルタンヴィルの鐘塔だとか、茶の中に浸したマドレエヌの味だとかが嘗つて彼に與へたのとそつくりな異樣の悦びが彼を襲ふ。が、何故このやうな悦ばしさが二個のでこぼこした石疊によつて喚び起されたのか? 彼は突然、自分の足の下の凸凹が、ヴェニスのサン・マルコ洗禮堂の二個のでこぼこな石疊の上で感じてゐたあらゆる感覺を生き生きと彼に喚び起させたからであることに氣がつく。だが、何故こんなつまらない感覺の喚起の中にこんなにも異樣な悦びがあるのだらうか? その不可思議に苦しめられながら、彼はゲルマント邸へはひつて行く。
 彼は小さな圖書室に導かれる。丁度サロンでは音樂が演奏されてゐる最中なので、それが終るまでそこで待つてゐなければならないのだ。その時その圖書室の隣りの食器室から皿にスプウンのぶつかる音が聞えてくる。するとさつき凸凹な石疊が彼に與へたのと同じやうな悦ばしさが再び彼を襲ふ。それは森のにほひと煙のにほひとの混つた、なんだか熱いやうな感覺である。皿にぶつかつたスプウンの音が、小さな森の手前に汽車が停まつてゐた間その車輪の何かを修繕してゐた工夫のハンマアの音を喚起させたのだ。……給仕長が彼のためにオレンジエェドを持つてくる。彼は渡されたナプキンで口を拭く。すると今度は突然、青空の幻が彼の目の前をよこぎる。彼はまるで今自分がバルベックの海岸に臨んだホテルの窓の前に立つてゐるやうに感ずる。昔その窓を前にして彼が糊の利いたタオルでもつて骨を折りながら自分の體を拭いてゐた時のことが、いま彼が口を拭いてゐたばかりの硬ばつたナプキンによつてありありと思ひ出されたのだ……
 さう云ふ經驗を繰り返してゐるうちに、彼は遂に彼の搜し求めてゐた一つの法則を發見するに至る。
「私のうちに再生したもの、……そのものは物體の原素《エッセンス》だけを食つてゐるのだ。そのものはその原素の中にのみ彼の食物、彼の無上の快樂を見出す。……嘗つて聞いたり嗅いだりしたことのある或る音響とか、或る匂ひとかが、再び――現在と過去とに於いて同時に、實在はしなくとも現實的に、抽象的にならずに觀念的に――聞かれたり嗅がれたりするや否や、忽ち物體の永續的なそして平常は隱れてゐるところの原素《エッセンス》が釋放される。そして或る時はずつと前から死んでゐるご
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