その上、私をもっと驚かせたのは、その超自然的な、光線のなかに、数年前私の見た時にはまったく気づかなかったところの、A氏の青白い顔がくっきりと浮び出していることだった。それをいま初めて発見する私の驚きかたというものはなかった。私の心臓ははげしく打った。
けれども私には、数年前のこの絵に、そういうものが描かれてあったとは、どうしても信ずることが出来なかった。
「あっ、A氏の顔が!」と私は思わず叫んだ。
「あなたにもそれがお見えになりますか?」
「ええ、確かに見えます。」
そこの薄明にいつしか慣れてきた私の眼は、その時夫人の顔の上に何ともいえぬ輝かしい色の漂ったのを認めた。
私は再び私の視線をその絵の上に移しながら、この驚くべき変化、一つの奇蹟について考え出した。それがこのように描きかえられたのでないことはこの夫人を信用すればいい。よしまた描きかえられたのにせよ、それはむしろ私達がいま見ているものの上に、更に線や色彩を加えられたものが数年前に私達が展覧会で見たものであって、それが年月の流れによって変色か何かして、その以前の下絵がおのずから現われてきたものと云わなければならない。そういう例は今までにも少なくはない。例えばチントレットの壁画などがそうであった。
――だが、それにしては、この絵の場合は、あまりに、日数が少なすぎる。数年の間にそのような変化が果して起り得るものかどうかは疑わしい。そうだとすると、それは丁度現在のように、夫人の驚くべき共感性によってこの絵の置かれてある唯一の距離、唯一の照明のみが、その他のいかなる距離と照明においても見ることを得ない部分を、私達に見せているのであろうか?
そういうことを考えているうちに、私にふと、A氏はかつてこの夫人を深く愛していたことがあるのではないか、そして夫人もまたそれをひそかに受け容《い》れていたのではないか、という疑いがだんだん萌《きざ》して来た。
それから私は深い感動をもって、私の前のA氏の傑作と、それに見入っているごとく思われるO夫人の病める眼とを、かわるがわる眺めたのである。
底本:「堀辰雄集 新潮日本文学16」新潮社
1969(昭和44)年11月12日発行
1992(平成4)年5月20日16刷
入力:横尾、近藤
校正:松永正敏
2003年12月12日作成
青空文庫作成ファイル:
このフ
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