この別荘への訪問を思い立ったのであったが。……
私は漸くその別荘の前まで来ると、ためらいながら、そのベルを押した。
しかし家の中はしいんとしていた。このベルはあまり使われないので鳴らなくなっているのかしらと思いながら、それをためすかのように、私がもう一度それを押そうとした瞬間、扉は内側から機械仕掛で開かれるように、私の前にしずかに開かれた。
夫人に面会することにすら殆ど絶望していた私は、私の名刺を通じると、思いがけなくも容易にそれを許されたのであった。
私の案内された一室は、他のどの部屋よりも、一そう薄暗かった。
私はその部屋の中に這入《はい》って行きながら、隅の方の椅子から夫人がしずかに立ち上って私に軽く会釈するのを認めた時には、私はあやうく夫人が盲目であるのを忘れようとした位であった。それほど、夫人はこの家の中でなら、何もかも知悉《ちしつ》していて、ほとんどわれわれと同様に振舞えるらしく見えたからである。
夫人は私に椅子の一つをすすめ、それに私の腰を下ろしたのを知ると、ほとんど唐突《とうとつ》と思われるくらい、A氏に関するさまざまな質問を、次ぎから次ぎへと私に発するのだった。
私は勿論《もちろん》、よろこんで自分の知っている限りのことを彼女に答えた。
のみならず、私は夫人に気に入ろうとするのあまり、夫人の質問を待とうとせずに、私だけの知っているA氏の秘密まで、いくつとなく洩《も》らした位であった。たとえば、こういうことまでも私は夫人に話したのである。――私はA氏とともに、第何回かのフランス美術展覧会にセザンヌの絵を見に行ったことがあった。私達はしばらくその絵の前から離れられずにいたが、その時あたりに人気《ひとけ》のないのを見すますと、いきなり氏はその絵に近づいて行って、自分の小指を唇で濡らしながら、それでもってその絵の一部をしきりに擦《こす》っていた。
私が思わずそれから不吉な予感を感じて、そっと近づいて行くと、氏はその緑色になった小指を私に見せながら、「こうでもしなければ、この色はとても盗めないよ。」と低い声でささやいたのであった。……
私はそういう話をしながら、A氏について異常な好奇心を持っているらしいこの夫人が、いつか私にも或る特別な感情を持ち出しているらしいことを見逃《みのが》さなかった。
そのうちに私達の話題は、夫人の所有してい
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