。そうしてこんな風に私たちから遠ざからせてしまったのにちがいない。それに、あの人は始終自分の貧乏なことを気にしていたようだけれど……(そんな考えがさっと少女の頬を赤らめた)……それで、あの人は私のお母さんに誘惑者のように思われたくなかったのかも知れない。あの人が私のお母さんを怖れていたことはそれは本当だわ。こんな風にあの人を遠ざからせてしまったのはお母さんだって悪いんだ。私のせいばかりではない。ひょっとしたら何もかもお母さんのせいかも知れない……
 そんな風にこんぐらかった独語が、娘の顔の上にいつのまにか、十七の少女に似つかわしくないような、にがにがしげな表情を雕《ほ》りつけていた。それは実に彼女自身への意地であったのだけれども、彼女には、それを彼女の母への意地であるかのように誤って信じさせながら……


「はいってもよくって?」
 そのとき部屋の外で母の声がした。
「いいわ」
 絹子は、彼女の母がはいって来るのを見ると、いきなり自分の狂暴な顔を壁の方にねじむけた。細木夫人はそれを彼女が涙をかくすためにしたのだとしか思わなかった。
「河野さんから絵はがきが来たのよ」と夫人はおどおどしながら言った。
 その言葉が絹子の顔を夫人の方にねじむけさせた。今度は夫人がそれから自分の顔をそむかせる番だった。
 ――この頃、細木夫人はすっかり若さを失っていた。そして彼女には、自分の娘が何んだか自分から遠くに離れてしまったように思われてならないのだった。彼女はときどき自分の娘を、まるで見知らない少女のようにさえ思うことがあった。そして今も、そうだった……
 絹子は、海の絵はがきの裏に、鉛筆で書かれた扁理の神経質な字を読んだ。彼は、その海岸が気に入ったからしばらく滞在するつもりだ、と書いて寄こしたきりだった。
 絹子はその絵はがきから、彼女の狂暴な顔をいきなり夫人の方にむけながら、
「河野さんは死ぬんじゃなくって?」と出しぬけに質問した。
 細木夫人はその瞬間、自分の方を睨《にら》んでいる、一人の見知らぬ少女の、そんなにも恐《こわ》い眼つきに驚いたようだった。が、その少女のそんな眼つきは突然、夫人に、彼女がその少女と同じくらいの年齢であった時分、彼女の愛していた人に見せつけずにはいられなかった自分の恐い眼つきを思い出させた。そうして夫人は、その見知らない少女がその頃の自分にひどく肖《に》ていることに、そして、その少女が実は自分の娘であることに、なんだか始めて気づいたかのように見えた。夫人は溜息《ためいき》をしずかに洩らした。――娘は誰かを愛している。自分が、昔、あの人を愛していたように愛している。そしてそれはきっと扁理にちがいない……
 細木夫人は、しかし次の瞬間、自分のなかに長いこと眠っていた女らしい感情が、再び目ざめだしたように感じた。九鬼の死後、彼女の苦しんでいた様子が、絹子の中にそれまで眠っていた女らしい感情を喚《よ》び起《おこ》したのとまったく同じの心理作用が、今度は、その反作用ででもあるかのように起ったのだ。そしてそれは、夫人もまた絹子と同じように扁理を愛しているかのように、彼女に信じさせたくらいの新鮮さで。――
 二人はそのまましばらく黙っていた。そしてその沈黙が、絹子の今しがた言った恐しい言葉を、そっくりそのまま肯定しているかのように思われそうになった時、細木夫人はようやく自分の母としての義務を取り戻した。
 そうして夫人はいかにも自信ありげな微笑を浮べながら、答えたのである。
「……そんなことはないことよ……それはあの方には九鬼さんが憑《つ》いていなさるかも知れないわ。けれども、そのために反ってあの方は救われるのじゃなくって?」
 河野扁理にはじめて会った時から、夫人に、彼の生のなかには九鬼の死が緯《よこいと》のように織りまざっていることを、そしてそれが彼をして死に見入ることによって生がようやく分るような不幸な青年にさせていることを見抜かせたところの、一種の鋭い直覚が、いま再び彼女のなかに蘇《よみがえ》って来ながら、そういう扁理の不幸を絹子に理解させるためには、いま言ったようなごく簡単な逆説《パラドックス》だけで充分であることを彼女に知らせたのだ。
「そうかしら……」
 絹子はそう答えながら、始めはまだ何処かしら苦痛をおびた表情で、彼女の母の顔を見あげていたけれども、そのうちにじっとその母の古びた神々しい顔に見入りだしたその少女の眼ざしは、だんだんと古画のなかで聖母を見あげている幼児のそれに似てゆくように思われた。



底本:「昭和文学全集 第6巻」小学館
   1988(昭和63)年6月1日初版第1刷発行
底本の親本:「堀辰雄全集 第1巻」筑摩書房
   1977(昭和52)年5月28日初版第1刷発行
初出:「改造」
   1932(昭和7)年11月号
初収単行本:「聖家族」江川書房
   1932(昭和7)年2月20日発行
※底本の親本の筑摩書房版は、江川書房版による。
※初出情報は、「堀辰雄全集 第1巻」筑摩書房、1977(昭和52)年5月28日、解題による。
入力:kompass
校正:松永正敏
2004年2月27日作成
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