して置いたのだ。
或る朝、二人は公園のなかに自動車をドライヴさせていた。
噴水のほとりに、扁理が一人の小さい女と歩いているのを、彼女たちが見つけたのはほとんど同時だった。その小さい女は黄と黒の縞の外套《がいとう》をきていて、何か快活そうに笑っていた。それと並んで扁理は考え深そうにうつむきながら歩いていた。
「あら!」と絹子が車の中でかすかに声を立てた。
と同時に彼女は、彼女の母がもしかしたら扁理たちに気づかなかったかも知れないと思った。そうして彼女自身もそれに気づかなかったような風をしようとした。
「なんだか目の中にゴミがはいっちゃったわ……」
夫人は夫人でまた、絹子が扁理たちを見なかったことを、ひそかに欲していた。そうして、ほんとうに目の中にゴミかなんか入って彼等を見なかったのかも知れないと思った。
「びっくりしたじゃないの……」
そう言って、夫人は自分の心持蒼くなっている顔をごまかした。
※[#アステリズム、1−12−94]
その沈黙はしかし、二人の間にながく尾をひいた。
それからというもの、絹子はよく一人で町へ散歩に出かけた。彼女は心の中のうっとうしさを運動不足のせいにしていたのだ。そうして母からも離れて一人きりになりたい気持や、こうして歩いているうちにまたひょっとしたら扁理に会えるかも知れないという考えなどの彼女にあったことは、少しも自分で認めようとはしなかった。
彼女は扁理とその恋人らしいものの姿を、下手な写真師のように修整していた。その写真のなかでは、例の小さい踊り子は彼女と同じような上流社会の立派な令嬢に仕上げられていた。
彼女はそういう扁理たちに対して何とも云えないにがさ[#「にがさ」に傍点]を味った。しかし、それが扁理のための嫉妬《しっと》であることには、勿論、彼女は気づかなかった。何故なら、彼女は扁理たちのような年輩のどういう二人づれを見てもその同じようなにがさ[#「にがさ」に傍点]を味ったからだ。そして彼女はそれを世間一般の恋人たちに対するにがさ[#「にがさ」に傍点]であると信じた。――実は、彼女はどういう二人づれを見ても知《し》らず識《し》らず扁理たちを思い出していたのだが……
彼女は歩きながら、飾窓《ショウウィンドウ》に映る自分の姿を見つめた。そうして彼女は、いますれちがったばかりの二人づれに自分を比較した。ときどき硝子の中の彼女は妙に顔をゆがめていた。彼女はそれを悪い硝子のせいにした。
或る日、そういう散歩から帰ってくると、絹子は玄関にどこか見おぼえのある男の帽子と靴とを見出した。
そうしてそれが誰のだかはっきり思い出せないことが、彼女をちょっと不安にさせた。
「誰かしら」
と思いながら、彼女が客間に近づいて行ってみると、その中から、こわれたギタアのような声が聞えてきた。
それは斯波《しば》という男の声であった。
斯波という男は、――「あいつはまるで壁の花[#「壁の花」に傍点]みたいな奴ですよ。そら、舞踏会で踊れないもんだから、壁にばかりくっついている奴がよくあるでしょう。そういう奴のことを英語で Wall Flower というんだそうだけれど……斯波の人生における立場なんか全くそれですね」――そんなことをいつか扁理が言っていたのを思い出しながら、それから、彼女はふと扁理のことを考えた。……
彼女が客間に入って行くと、斯波は急に話すのを歇《や》めた。
が、すぐ、斯波は、例のこわれたギタアのような声で、彼女に向って言いだした。
「いま、扁理の悪口を言っていたところなんですよ。あいつはこの頃全く手がつけられなくなったんです。くだらない踊り子かなんかに引っかかっていて……」
「あら、そうですの」
絹子はそれを聞くと同時ににっこりと笑った。いかにも朗らかそうに。そして自分でも笑いながら、こんな風に笑ったのは実にひさしぶりであるような気がした。
このながく眠っていた薔薇《ばら》を開かせるためには、たった一つの言葉で充分だったのだ。それは踊り子[#「踊り子」に傍点]の一語だ。扁理と一しょにいた人はそんな人だったのか、と彼女は考え出した。私はそれを私と同じような身分の人とばかり考えていたのに。そしてそういう人だけしか扁理の相手にはなれないと思っていたのに。……そうだわ、きっと扁理はそんな人なんか愛していないのかも知れない。もしかすると、あの人の愛しているのはやっぱし私なのかも知れない。それだのに私があの人を愛していないと思っているので、私から遠ざかろうとしているのではないかしら。そうして自分をごまかすためにきっとそんな踊り子などと一しょに暮らしているのだ。そんな人なんかあの人には似合わないのに……
それは少女らしい驕慢《きょうまん》な論理だった。しかし、大抵の場合、少女は自分自身の感情はその計算の中に入れないものだ。そして絹子の場合もそうだった。
※[#アステリズム、1−12−94]
ときどき鳴りもしないのにベルの音を聞いたような気がして自分で玄関に出て行ったり、器械がこわれていてベルが鳴らないのかしらと始終思ったりしながら、絹子はたえず何かを待っていた。
「扁理を待っているのかしら?」ふと彼女はそんなことを考えることもあったが、そんな考えはすぐ彼女の不浸透性の心の表面を滑って行った。
或る晩、ベルが鳴った。――その訪問者が扁理であることを知っても、絹子は容易に自分の部屋から出て行こうとしなかった。
やっと彼女が客間にはいって行くと、扁理は、帽子もかぶらずに歩いていたらしく、毛髪をくしゃくしゃにさせながら、青い顔をして、ちらりと彼女の方をにらんだ。それきり彼は彼女の方をふりむきもしなかった。
細木夫人は、そういう扁理を前にしながら、手にしている葡萄《ぶどう》の皿から、その小さい実を丹念に口の中へ滑り込ましていた。夫人は目の前の扁理のだらしのない様子から、ふと、九鬼の告別式の日に途中で彼に出会った時のことを思い出し、それからそれへと様々なことが考えられてならないのだが、彼女はそれから出来るだけ心をそらそうとして、一そう丹念に自分の指を動かしていた。
突然、扁理が言った――
「僕、しばらく旅行して来ようと思います」
「どちらへ?」夫人は葡萄の皿から眼を上げた。
「まだはっきり決めてないんですが……」
「ながくですの?」
「ええ、一年ぐらい……」
夫人はふと、扁理が、例の踊り子と一しょにそんなところへ行くのではないかと疑いながら、
「淋しくはありませんか」と訊《き》いた。
「さあ……」
扁理はいかにも気のない返事をしたきりだった。
絹子はといえば、その間黙ったまま、彼の肖像でも描こうとするかのように、熱心に彼を見つめていた。
そうして彼女の母が、扁理の、梳《くしけず》らない毛髪や不恰好《ぶかっこう》に結んだネクタイや悪い顔色などのなかに、踊り子の感化を見出している間、絹子はその同じものの中に彼女自身のために苦しんでいる青年の痛々しさだけしか見出さなかった。
扁理が帰った後、絹子は自分の部屋にはいるなり、思わず眼をつぶった。さっきあんまり扁理の赤い縞のあるネクタイを見つめ過ぎたので、眼が痛むのだ。するとその閉じた眼の中には、いつまでも赤い縞のようなものがチラチラしていた……
※[#アステリズム、1−12−94]
扁理は出発した。
都会が遠ざかり、そしてそれが小さくなるのを見れば見るほど、彼には出発前に見てきた一つの顔だけが次第に大きくなって行くように思われた。
一つの少女の顔。ラファエロの描いた天使のように聖《きよ》らかな顔。実物よりも十倍位の大きさの一つの神秘的な顔。そしていま、それだけがあらゆるものから孤立し、膨大し、そしてその他のすべてのものを彼の目から覆い隠そうとしている……
「おれのほんとうに愛しているのはこの人かしら?」
扁理は目をつぶった。
「……だが、もうどうでもいいんだ……」
そんなにまで彼は疲れ、傷つき、絶望していた。
扁理。――この乱雑の犠牲者には今まで自分の本当の心が少しも見分けられなかったのだ。そして何の考えもなしに自分のほんとうに愛しているものから遠ざかるために、別の女と生きようとし、しかもその女のために、もうどうしていいか分らないくらい、疲れさせられてしまっているのだ。
そうして彼はいま何処へ到着しようとしているのか?
何処へ?……
彼は突然、汽車が一つの停車場に停まると同時に、慌ててそこへ飛び降りてしまった。
それは何かの薬品の名を思い出させるような名前の、小さな海辺の町であった。
そしてこの一個のトランクすら持たぬ悲しげな旅行者は、停車場を出ると、すぐその見知らない町の中へ何の目的もなしに足を運んで行った。
彼はしかし歩いてゆくうちに、ふと変な気がしだした。……通行人の顔、風が気味わるく持ち上げている何かのビラ、何とも言えず不快な感じのする壁の上の落書、電線にひっかかっている紙屑《かみくず》のようなもの、――そういうものが彼になにかしら不吉な思い出を強請するのだ。扁理は或る小さなホテルにはいり、それから見知らない一つの部屋にはいった。あらゆるホテルの部屋に似ている一つの部屋。しかし、それすら彼に何かを思い出させようとし、彼を苦しめ出すのだ。彼は疲れていて非常に眠かった。そして彼はそのすべてを自分の疲れと眠たさのせいにしょうとした。彼はすこし眠った。……目をさますと、もう暗くなっていた。窓から入ってくる、湿っぽい風が扁理に、自分が見知らない町に来ていることを知らせた。彼は起き上り、それから再びホテルを出た。
そうしてまた、さっき一度歩いたことのある道を歩きながら、あの時から少しも失われていない自分のなかの不可解な感じを、犬のように追いかけて行った。
突然、或る考えが扁理にすべてを理解させ出したように見える。さっきから自分をこうして苦しめているもの、それは死の暗号ではないのか。通行人の顔、ビラ、落書、紙屑《かみくず》のようなもの、それらは死が彼のために記して行った暗号ではないのか。どこへ行ってもこの町にこびりついている死の印《しるし》。――それは彼には同時に九鬼の影であった。そうして彼にはどうしてだか、九鬼が数年前に一度この町へやってきて、今の自分と同じように誰にも知られずに歩きながら、やはり今の自分と同じような苦痛を感じていたような気がされてならないのだ……
そうして扁理はようやく理解し出した、死んだ九鬼が自分の裏側にたえず生きていて、いまだに自分を力強く支配していることを、そしてそれに気づかなかったことが自分の生の乱雑さの原因であったことを。
そうしてこんな風に、すべてのものから遠ざかりながら、そしてただ一つの死を自分の生の裏側にいきいきと、非常に近くしかも非常に遠く感じながら、この見知らない町の中を何の目的もなしに歩いていることが、扁理にはいつか何とも言えず快い休息のように思われ出した。
――そのうちに扁理は、強い香りのする、夥《おびただ》しい漂流物に取りかこまれながら、うす暗い海岸に愚かそうに突立っている自分自身を発見した。そうして自分の足もとに散らばっている貝殻や海草や死んだ魚などが、彼に、彼自身の生の乱雑さを思い出させていた。――その漂流物のなかには、一ぴきの小さな犬の死骸が混っていた。そうしてそれが意地のわるい波にときどき白い歯で噛まれたり、裏がえしにされたりするのを、扁理はじっと見入りながら、次第にいきいきと自分の心臓の鼓動するのを感じ出していた……
※[#アステリズム、1−12−94]
扁理の出発後、絹子は病気になった。
そうして或る日、彼女はとうとう始めて扁理への愛を自白した。彼女は寝台の上で、シイツのように青ざめた顔をしながら、こんなことを繰り返えし繰り返えし考えていた。
――何故私はああだったのかしら。何故私はあの人の前で意地のわるい顔ばかりしていたのかしら。それがきっとあの人を苦しめていたのだわ
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