を切りながら、ひょいと老人のような微笑を浮べた。何も彼も知っているんだと言った風な……
 ――扁理はそんな風に二通りの微笑を使い分けるのだ。子供のような微笑と老人のような微笑と。つまり、他人に向ってするのと自分に向ってするのとを区別していたのだ。
 そしてそういう微笑のために、彼は自分の心を複雑なのだと信じていた。


 偏理にとって、細木夫人との二度目の面会が、その前のときよりもずっと深い心の状態においてなされたのは、そういうエピソオドのためだった。細木夫人の部屋は、彼の夢とは異って、装飾などもすこぶる質素だった。決してイギリス風でも、巴里風《パリふう》でもなかった。そしてそれは彼に何となく一等船室のサロンを思わせた。
 ときどき彼が船暈《ふなよい》を感じている人のような眼ざしを夫人の上に投げるのに注意するがいい。
 だが扁理の心理をそんなに不安にさせているのは、そういう環境のためばかりではなしに、細木夫人とともに故人の思い出を語りながら、たえず相手の気持について行こうとして、出来るだけ自分の年齢の上に背伸びをしているためでもあったのだ。
 ――この人もまた九鬼を愛していたのにちがい
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