ときどき硝子の中の彼女は妙に顔をゆがめていた。彼女はそれを悪い硝子のせいにした。
或る日、そういう散歩から帰ってくると、絹子は玄関にどこか見おぼえのある男の帽子と靴とを見出した。
そうしてそれが誰のだかはっきり思い出せないことが、彼女をちょっと不安にさせた。
「誰かしら」
と思いながら、彼女が客間に近づいて行ってみると、その中から、こわれたギタアのような声が聞えてきた。
それは斯波《しば》という男の声であった。
斯波という男は、――「あいつはまるで壁の花[#「壁の花」に傍点]みたいな奴ですよ。そら、舞踏会で踊れないもんだから、壁にばかりくっついている奴がよくあるでしょう。そういう奴のことを英語で Wall Flower というんだそうだけれど……斯波の人生における立場なんか全くそれですね」――そんなことをいつか扁理が言っていたのを思い出しながら、それから、彼女はふと扁理のことを考えた。……
彼女が客間に入って行くと、斯波は急に話すのを歇《や》めた。
が、すぐ、斯波は、例のこわれたギタアのような声で、彼女に向って言いだした。
「いま、扁理の悪口を言っていたところなんですよ。あいつはこの頃全く手がつけられなくなったんです。くだらない踊り子かなんかに引っかかっていて……」
「あら、そうですの」
絹子はそれを聞くと同時ににっこりと笑った。いかにも朗らかそうに。そして自分でも笑いながら、こんな風に笑ったのは実にひさしぶりであるような気がした。
このながく眠っていた薔薇《ばら》を開かせるためには、たった一つの言葉で充分だったのだ。それは踊り子[#「踊り子」に傍点]の一語だ。扁理と一しょにいた人はそんな人だったのか、と彼女は考え出した。私はそれを私と同じような身分の人とばかり考えていたのに。そしてそういう人だけしか扁理の相手にはなれないと思っていたのに。……そうだわ、きっと扁理はそんな人なんか愛していないのかも知れない。もしかすると、あの人の愛しているのはやっぱし私なのかも知れない。それだのに私があの人を愛していないと思っているので、私から遠ざかろうとしているのではないかしら。そうして自分をごまかすためにきっとそんな踊り子などと一しょに暮らしているのだ。そんな人なんかあの人には似合わないのに……
それは少女らしい驕慢《きょうまん》な論理だった。しかし、大抵
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