※[#アステリズム、1−12−94]
それまで彼の夢にしか過ぎなかった細木家というものが、急に一つの現実となって扁理の生活の中にはいってきた。
扁理はそれを九鬼やなんかの思い出といっしょくたに、新聞、雑誌、ネクタイ、薔薇《ばら》、パイプなどの混雑のなかに、無造作に放り込んでおいた。
そういう乱雑さをすこしも彼は気にしなかった。むしろそれに、彼自身に最もふさわしい生活様式を見出していたのだ。
或る晩、彼の夢のなかで、九鬼が大きな画集を彼に渡した。そのなかの一枚の画をさしつけながら、
「この画を知っているか?」
「ラファエロの聖家族[#「聖家族」に傍点]でしょう」
と彼は気まり悪そうに答えた。それがどうやら自分の売りとばした画集らしい気がしたのだ。
「もう一度、よく見てみたまえ」と九鬼が言った。
そこで彼はもう一ぺんその画を見直した。すると、どうもラファエロの筆に似てはいるが、その画のなかの聖母の顔は細木夫人のようでもあるし、幼児のそれは絹子のようでもあるので、へんな気がしながら、なおよく他の天使たちを見ようとしていると、
「わからないのかい?」と九鬼は皮肉な笑い方をした……
扁理は目をさました。見ると、散らかった自分の枕もとに、見おぼえのある、立派な封筒が一つ落ちているのだ。
おや、まだ夢の続きを見ているのかしら……と思いながら、それでもいそいでその封を切って見ると、手紙の中の文句は明瞭《めいりょう》だった。ラファエロの画集を買い戻しなさいと言うのだ。そしてそれと一しょになって一枚の為替が入っていた。
彼はベッドの中で再び眼をつぶった。自分はまだ夢の続きを見ているのだと自分自身に言ってきかせるかのように。
その日の午後、細木家を訪れた扁理は大きなラファエロの画集をかかえていた。
「まあ、わざわざ持っていらっしったんですか。あなたのところに置いておけばおよろしかったのに」
そう言いながらも、夫人はそれをすぐ受取った。そうして籐椅子《とういす》に腰かけながら、しずかにそれを一枚一枚めくっていった……と思うと、突然、それを荒あらしい動作で自分の顔のところに持ち上げた。そしてその本のにおいでも嗅《か》いでいるらしい。
「なんだか莨《たばこ》のにおいがいたしますわ」
扁理は驚いて夫人を見上げた。咄嗟《とっさ》に九鬼が非常に莨好きだったことを思い
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