わせて近づいてくるのを私より先きに認めたからだった。……
 数分後、私は以前のように一人きりになって、再び松の木にぼんやり靠《もた》れかかりながら、私の背後の灌木の茂みの向うで、この村特有の訛《なま》りのある若者らしい声でこんなことを言っているのを、聞くともなく聞いていた。
「ずいぶん捜していたんだよ。」
「そう……」娘の返事はいかにも気がなさそうに見えた。
 それっきり彼等は無言で、草をごそごそ踏み分ける音だけを立てながら、私からだんだん遠ざかって行った。

 夕方、家へ帰ってくると、私は窓をすっかり開けて、その窓の近くに負傷をした小さな獣のように転《ころ》がっていた。そうしてその窓のそとからはいってくる、井戸端の女等の話し声や、子供の叫びや、土の匂《にお》いや、それからそれに混っている、コスモスのらしい匂いだのが、痛いほど私の傷に沁《し》みて来るのを私はそのままにさせておいた。
 父の帰りが私をそんな麻痺《まひ》したような状態から蘇らせた。
「おい、そんなことをしていると風邪《かぜ》をひくぞ。」
 父はいつもの、その優しい感情を強いて私に見せまいとするような、乾いた声で私を叱った。
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