て、それから弘に向って「弘ちゃん、ちょっと御供所《おみきしょ》までいって、お父さんを呼んできておくれでないか。お花の先生がちょっとお呼びですからって。……いったらいったきりで、ちょっとやそっとでは帰って来ないんだからね。……ほんとに困っちまう。」
 それを聞くと、弘はいそいで立ち上って、まるで逃げ出しでもするようにして、下駄を突っかけたまま、おもてへ飛び出していった。
 それから、弘の母は二言三言お照と立ち話をしていたが、いそがしそうに再び自分の家へ帰って行ってしまった。あとには、お照が一人だけ長火鉢の傍《そば》に取り残された。
 お照は、それから暫《しばら》くぼんやりと、いましがた弘の勉強していた茶ぶ台の方を眺《なが》めていた。茶ぶ台の上には、まだ何やらわけのわからぬ図形や記号の一ぱい描きちらされている帳面が、開けたまんまになっている。――そんなお照の心にはいつか、よくその同じ場所で、ひとりで落語の稽古《けいこ》をしていた死んだ清ちゃんの後姿が蘇ってきている。清ちゃんもずいぶん不幸な人だったらしいけれど、――と、お照はそれからしばらく、自分にも、弘にも叔父にあたる、かつ若という落語家
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