私に応《こた》えた。
 私たちの見上げている木の枝からは木の葉がひらひらと二三枚静かに落ちてきた。しかし、そこには小鳥なんぞの飛び立ったような気配はない。私のトリックは曝《ば》れそうだった。そのとき私は目ざとく、彼女の肩に一枚の木の葉がくっついているのを見つけて、
「やあ、肩に葉っぱがくっついてらあ!」と頓狂《とんきょう》な声を出した。
 気味のわるい虫でも肩についているのを見つけたような、私の大げさな言い方は、彼女の目を梢の先きから離れさせるには十分だった。しかし、ふり向いた途端に、その木の葉は彼女の肩から地面に落ちてしまった。私はさも困ったような顔をしていた。
 このような娘と二人きりの林のなかでの出会は、私のあんなにも夢みていたものであったのに、さて、こうしてその娘と二人きりになってみると私はもう彼女から逃げることばかりしか考えなかった。何んと! その口実に私はこの娘はどうも自分の好きなタイプじゃないなどと唐突に考え出していた。そうしてそのまま二人は気づまりそうに黙り合っていた。そのうち娘の方でちらりと顔をしかめた。誰かが私の背後の灌木《かんぼく》の茂みの向うの草の中をごそごそ云わせて近づいてくるのを私より先きに認めたからだった。……
 数分後、私は以前のように一人きりになって、再び松の木にぼんやり靠《もた》れかかりながら、私の背後の灌木の茂みの向うで、この村特有の訛《なま》りのある若者らしい声でこんなことを言っているのを、聞くともなく聞いていた。
「ずいぶん捜していたんだよ。」
「そう……」娘の返事はいかにも気がなさそうに見えた。
 それっきり彼等は無言で、草をごそごそ踏み分ける音だけを立てながら、私からだんだん遠ざかって行った。

 夕方、家へ帰ってくると、私は窓をすっかり開けて、その窓の近くに負傷をした小さな獣のように転《ころ》がっていた。そうしてその窓のそとからはいってくる、井戸端の女等の話し声や、子供の叫びや、土の匂《にお》いや、それからそれに混っている、コスモスのらしい匂いだのが、痛いほど私の傷に沁《し》みて来るのを私はそのままにさせておいた。
 父の帰りが私をそんな麻痺《まひ》したような状態から蘇らせた。
「おい、そんなことをしていると風邪《かぜ》をひくぞ。」
 父はいつもの、その優しい感情を強いて私に見せまいとするような、乾いた声で私を叱った。
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